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村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

狭山丘陵の春

2019-04-24 10:26:38 | 日記
里山民家の周辺を散策しました。
幕末の事は置いといて。



東京都が自然公園にして環境を保護しています。
その中の里山には田んぼや池があります。その南側の山には縄文の遺跡があり、よく見ると地面に土器の破片が落ちていました。
古代人は日当たりが良く、見晴らしが良く、安全な場所を選んで住んでいました。
この辺は最適ですね。

里山の東奥に平らな所があり、江戸初期に人が住んでいました。
奥に宝永のころのお墓がいくつも並んでいます。岸ができた頃でしょう。秋のモミジもきれいです。

山の中を歩くと、ヤマツツジがちょこちょこと咲いています。うぐいすも鳴いています。



ふもとの総合体育館のところには、ヤマブキが咲いています。
その前の小高い丘は大将山といって太田道灌が陣を置いたところの伝承がありますが、あの狭い所にはおけないでしょうが、南西方向が良く見え大菩薩峠もみえます。物見ぐらいはあったかもしれません。



で、「七重八重 花は咲けどもヤマブキの 実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」で一枝差し出した。
たぶんこの辺、武蔵野であったことかもしれません。
きれいなお嬢さんにヤマブキ一枝差し出されたら。
「俺もっと勉強しなくっちゃ」と思うでしょう。



新緑  (*^-^*)

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文久3年(1863)

2019-04-19 10:23:27 | 日記
この頃から攘夷決行とかで長州、薩摩が軍艦と戦争を始めました。

また前年、八王子で大火があり八日町周辺で300軒燃えたそうです。

3月異国人と合戦始まる由を申し、江戸混雑し、絣縞 2分1朱くらいに売れたのが、1分600、700ぐらいに下がったとあります。
木綿の絣縞が生産されていたのがわかります。

江戸追々混乱、お大名方の奥向きを(女性)知行所に送り御旗本の老少女子をそれぞれに知行の寺院などへ遣わす手配あり、町方もいなかの縁を求め、荷物を運び老人を送り遣わす。
江戸が戦争が起きるとのことで混乱していたのが良くわかります。

大河ドラマなど幕末ものでは、江戸がどのようだったかあまり描かれません。
4月25日戸端人別、村々見張りを置く、人数に応じ竹やりをこしらえ置き、もし狼藉もの手に余ることある時は、突き止め切り殺し候とも、苦しからず由を申し渡さる。
4月20日 夜、葺きしの安五郎宅に3人のもの押し入り狼藉に及びける故、家内の者声を揚げけるにより、村中竹やり、得物を持ち馳せ付けるに付、逃げ去る。
29日また、この騒ぎの後、密通の女をもらい受け嫁にする。とか病気が長引くので、家族がキツネやタヌキがついたのでは、と加持祈祷をした、このような愚昧なことあるわけないよとあります。

10月18日 山崎の林平宅による5つ頃6人の盗人押し込み、金子、脇差を奪い去る、この夜、砂川の原の車屋2か所に、右6人押し込み金子を奪い立ち去る。

大変な時代でした、村々一致団結をして村を守っていたことがわかります。
今のような好き勝手をしていたら?



   "(-""-)"




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新撰組

2019-04-11 11:28:59 | 日記
文久の頃、新撰組になる前の、近藤、土方、沖田、等試衛館メンバーが武蔵村山後が谷戸地区(狭山丘陵南部)にあった剣術道場に出稽古に来ていました。
ここの伝承に大勢来て飲み食いするので、かなり金がかかったとぼやいている事が伝わっています。
筆者も古老から道場があったことを聞いております。

多摩地区は幕府のお膝元なので、当然幕府方です。
今でも高幡不動にはその特徴ある木刀が展示してあります。

農民にも剣術が流行ったのですね。



   (*^-^*)

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改元

2019-04-08 15:55:04 | 日記
安政7年3月18日が万延元年に改元で2年の2月18日が文久元年に改元。
万延元年6月28日(東大和)芋久保の久蔵来て藍葉を買う、とあり、この頃畑に藍の葉を作って染色に使っていたことがわかります。

結納、結婚などいろいろなことが書かれています。

和宮様が将軍にお嫁入で、11月11日京都より御姫宮御参向に付き、村々より人足、百石に16人、18歳より50歳までの壮夫に勤めしむべき由を申し渡さる、後家、病夫を除けば、軒別にて人不足の村多し、大行院・予が宅にも勤むべき由に付,保十郎行く。
和宮様が来られるので村々からお迎え、警備に駆り出され、15日無事和宮内親王の神輿、江戸御着。
偉いお姫様ですよね、江戸に来て幕府と朝廷の結びつきを強くしたんですからね。

農家は養蚕で稼げるようになったら、ばくち打ちが横行して村を暴れまわるようになった。
村々は一致団結して守った。結構温泉に湯治に行ったりして。
6月23日、三ツ木村より芋久保辺までの博徒、所沢博えきの宿に押し入りて駒札を取り来る。

7月29日には田舎一統麻疹の死者おびだだし。
8月7日府内コロリと名付け病みつくと即日死す。コロリはコレラのことです。
だいぶはやったようです。大勢の人が亡くなりました。
ばくち打ち、強盗、泥棒、伝染病、天変地異、政治の混乱など世情騒乱で大変だったことでしょう。

すぐに人が亡くなる、今よりはるかに死が身近にあったんでしょう。

テレビでやっている時代劇は、ここに書かれていることはだいぶ違っています。



    早春



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