立川市の一番北側に砂川という地名があります。
江戸時代初期に武蔵村山と瑞穂町の境にある岸という所から、村野、小川という人が新田開発をして作ったところです。
西砂川の阿須佐味神社の裏手にはこの開拓者の子孫のお墓があります。
当然、岸にある苗字が並んでいます。
今の砂川は住宅地になっていて多くの人が住んでいます。
水が無くて大変苦労して開拓したようです。玉川上水が通ってから人が住めるようになった。
この武蔵野台地は水がなく人が住めない土地でした。わずかに狭山丘陵の周辺に住んでいました。
↑武蔵村山市里山民家
米は取れないから麦、ということで周辺はうどんを食べていました。
特に我々織物業者は早く食べれるというので、好んで食べました。
そんなわけで、この辺は江戸末期から桑も作って養蚕をしていました。
綿花も作っていたようで、村山大島は最初は絹でなくて木綿の藍染めの布、村山紺絣を作ってました。昭和初期に絹になりました。
国木田独歩の「武蔵野」に当時の様子「明治初期」が書かれています。
^^) _旦~~
江戸時代初期に武蔵村山と瑞穂町の境にある岸という所から、村野、小川という人が新田開発をして作ったところです。
西砂川の阿須佐味神社の裏手にはこの開拓者の子孫のお墓があります。
当然、岸にある苗字が並んでいます。
今の砂川は住宅地になっていて多くの人が住んでいます。
水が無くて大変苦労して開拓したようです。玉川上水が通ってから人が住めるようになった。
この武蔵野台地は水がなく人が住めない土地でした。わずかに狭山丘陵の周辺に住んでいました。
↑武蔵村山市里山民家
米は取れないから麦、ということで周辺はうどんを食べていました。
特に我々織物業者は早く食べれるというので、好んで食べました。
そんなわけで、この辺は江戸末期から桑も作って養蚕をしていました。
綿花も作っていたようで、村山大島は最初は絹でなくて木綿の藍染めの布、村山紺絣を作ってました。昭和初期に絹になりました。
国木田独歩の「武蔵野」に当時の様子「明治初期」が書かれています。
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