村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

狭山丘陵には

2019-06-25 11:01:04 | 日記
武蔵の国の中央にある狭山丘陵は古多摩川の浸食作用や隆起によってできたようですが、いつ頃から人が住んでいたのでしょうか?
日本列島には3万年ぐらい前から移り住んできたのではないでしょうか?ということになっています。
この山の北側の所沢市三ケ島に石器時代の遺跡があります、3万年ぐらい前でしょうか?
ともかく、縄文時代13000年前ぐらいにはこの辺に住んでいたようです。
氷河時代から暖かくなって人が住みだしました。

縄文海進によって、海がかなり関東平野の奥に入り込んできています。
3000年ごろ前から寒くなり、2000年ぐらい前には400年間ぐらいこの辺には全く人が住んでいた形跡がありません。
入間の方も形跡が残っていません。

この縄文末期から寒くなり人口が全国で20万人ぐらいが、7万人ぐらいに減ったようです。
大きな気候変動があったのでしょう。



昭和40年後半から新青梅街道の開通により武蔵村山に大勢移住してきて畑が住宅地に変わり、今は半分以上が移ってきた人たちです。
縄文時代から人が住んでいなかったところにこの40数年で家が建ちました。

現在はその人たちが高齢になり、年寄りばかりになってきています。
どこ行っても年寄りだらけ、と言う事は自分も年寄りになったというわけです。

   (/・ω・)/


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武士

2019-06-20 11:14:28 | 日記
武士がなぜできたのか、難しい問題ですが、武士身分ができたのは平将門の頃のようです。
桓武天皇などの6代目ぐらいの子孫は、準貴族なんですが大勢いましたので都にはそのポストがなく地方に行かされた。
関東などを開拓していた豪族は、その貴種を娘と結婚させて家格を上げた。

豪族は武蔵などで馬を飼いました。あきる野、八王子はその牧の名残だと聞いています。
武蔵野あたりは馬を育て、乗馬して弓を射るのに長けた人たちが育ちました。
かなり治安が悪くなって、守る必要ができて武門が必要とされたようです。
その中で平将門の頃に武士が確立されたようです。

蝦夷が弓馬に長けていたようで、武蔵野にも俘囚がいたようです。
織物組合の傍から平安末期の小鍛冶場の後が発見されて、そこから矢じり、小刀が出土しております。
村山党の武器製造をしていたのでしょう?
武士は弓馬の道、刀ではないのです。剣道の先生が高校生相手でも立ち合いには気を抜けないと言っていました。
刀ではリスクが多いのです。弓なら遠くへ飛んでゆけます。

1000年前にはこの辺では馬に乗った武士が走り回っていたのでしょう。
鎌倉時代には武蔵野国には御家人が200名近くいたようで、武士の本場でした。
室町時代に衰退して、戦国時代に山口氏が滅亡して、村山党が無くなりました。

でも今でも名字、金子、猪俣、村山などが残っています。
詳しいことはわからないというのが真実です。



  (*^-^*)


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村山党

2019-06-11 10:43:31 | 日記
武蔵村山周辺、狭山丘陵西南部が日本の歴史に出て、華やかだったのは平安末期から鎌倉時代でしょうか。
瑞穂町周辺に村山党という武士の集団がありまして、源平の戦い、奥州藤原攻め、承久の変、鎌倉幕府滅亡、などに関係していて多くの戦に参戦しています。
(特に提示物語絵巻の六波羅行幸の場面で、女装した二条天皇が車に乗って逃げる所を、鞭ですだれを払いのけて中を改めている武士が描かれていて、その人が村山党の金子十郎という人です。)
後は源氏に従っていますが。

手柄を立て日本各地に主に西日本に恩賞として領地をもらいそのまま地頭として居ついています。
承久の変の時、後鳥羽上皇方の領地が没収され鎌倉幕府の御家人が多く西日本に行きました。
村山党の属する武蔵7党からも全国に行きました。



武蔵村山には村山党を再現して、紙で見事な鎧兜を作って町おこしをしています。
なんせその頃の鎧兜は全国に数領しか残っていませんので、再現もたいへんです。
いいところに目を付けたなと思っています。



村山党ロックバンドというのがあり、頑張っています。



お姫様も村山大島着ていますよ。

   (^^♪

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