村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

武蔵七党

2019-01-29 11:13:18 | 日記
武蔵の国には武士の集団がいくつかあり、婚姻で親戚なっていたようです。
平安時代関東を開拓したのは平家の武士です。秩父に来て子孫が関東一円に広がりました。

この狭山丘陵には村山党が土着していたようです。
武蔵野台地ではコメができないので、原っぱで馬の飼育をしていたようです。
当然乗馬が上手です。

幕末の資料で村山郷は瑞穂町の箱根ヶ崎、殿ヶ谷、武蔵村山の岸を言うと出ておりますがよくわかりません。
瑞穂町には猪俣、村山、金子などの武士の名字が残っています。
武蔵村山のこの組合のある中藤は村山党の中の党、中党からきているとの説があります。
地元にいて、中藤という地名の由緒が全くわかりません。

近くに平安末期の鍛冶屋さんの仕事場の後が出土していて矢じりなどが郷土資料館に展示してあります。
ですから、これらを村山党が使っていたかもしれません。

頼朝が挙兵したときは平家についていましたが、その後、源氏に付きました。
承久の変の後、御家人たちは大勢西に行き鎌倉幕府を固めました。
うちの奥さんの実家は中国地方なんですが、そこの地頭にこの辺の武士が何人行っています。
毛利も相模の武士が始まりです。
大名の多くがこの辺、関東出です。



    ↑ 大岳山      (*^-^*)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真福寺

2019-01-24 10:47:39 | 日記
織物組合から北の所沢方面に行くと、歴史民俗資料館があります。
そこに真福寺の解説書がおいてありました。
そこにはこの武蔵村山のだいたいの歴史が書かれております。

北側に広がる狭山丘陵は石器時代から人が住んでいました。
縄文の遺跡が多くあります。
この武蔵野という所は台地なので水が無く、人が生活すには適さない雑木林とススキの野原でした。

自分が60年近く前で覚えている事は、南の方の横田基地方面は畑ばかりでススキがぼうぼうとはえていました。
水が無くて人間が住めるような所ではなかったのです。
だから人々は狭山丘陵の周辺に住みました。

この辺には由緒ある寺院仏閣がほとんどなく、あずさみ神社、真福寺ぐらいしかありません。
したがいまして、古い資料、古文書もあまり残っておらず、江戸末期の物ならば残っています。

歴史に出てくるのは、武蔵七党の村山党です。
平安末期に保元平治の乱に活躍しました。鎌倉武士の御家人だったんでしょう。
狭山丘陵のどこかに住んでいたようですが詳しいことはわかりません。

この地はわずかに山の間に沼地がありそこで米を作っていたのです。
資源がない土地なので、畑を耕して機を織って暮らしていました、ということになります。
で、多摩川上水ができてここから小金井小平国分寺などに開拓農民で出て行きました。



↑ここは弥生時代の遺跡が眠っております。  

    (*‘ω‘ *)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年

2019-01-17 10:58:42 | 日記
元旦に鎮守様にお参りに行くと、いつも社の裏側を通って一回りしますが、今年は通行止めになっていました。
というのは、後ろに小さな崖が出ていて地層が見えている所が、崩れて木が倒れたのです。

子供の頃からこの地層が好きでよく見ていましたが、その地層はこの地が海の中にあった時に火山が噴火して火山灰が積もって出来た地層のようです。
これに似た地層が狭山湖上流の大沢という小川に薄緑したシルト層があります。かなり薄気味悪いところなんですが。
狭山丘陵の基部になっているようです。

ここからは想像なのですが、できたのは180万年ぐらい前で伊豆半島が本州にぶつかりだしたころのようです。
今とまったく風景が違っていて、前にある丹沢、大山などなく海が広がっていたようです。
人はまだこの地にはいません。ゾウがいたようです。

鎮守様の後ろの崖がこのような環境でできていたのは、想像するだけで楽しいです。
ちなみに、狭山丘陵と多摩丘陵は同じころの成立であるようです。

地形図を見ると見事に本州に伊豆半島がぶつかっているのがわかります。



元旦から壮大な地史の発見です。

   (*^-^*)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年あけましておめでとうございます。

2019-01-01 22:51:16 | 日記
よい正月ですね!
どの辺がよいか?風が出なくて(からっ風)穏やかです。

掃除も終わり、きれいになって気持ちもスッキリ。
初詣に鎮守様に子供とお参り。
以前は知り合いに大勢と会ったのですが、少なくなりましたねー。

元旦祭を神社の中でした事があるんですが、これが実に寒い。
近くで甘さけがふるまわれて実にこれがうまい。

その近くに不動尊がありそこも行く。
ここに縄文の遺跡、住居跡があります。
そこから色々と土器などが出土しています。
住居は環状に石が並べてあります。

いつも思うのですが、実にうまい所に立地しています。
南側に突き出た丘で近くに水があり日当たりが良く眺めがよい。
狭山丘陵の南側のこのような地形には縄文の遺跡が多くあります。

その南北には草原(武蔵野)が広がって、猟場だったでしょう。
ここの北東方向が尾張藩の鷹狩り場だったような。
この狭山丘陵は遺跡だらけです。

縄文晩期にはほとんど人が住んでいなかった、たぶん寒冷化でしょうね。
この丘陵は東が本郷切通だそうです。



  (^^♪


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする