村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

天候

2019-03-29 17:22:36 | 日記
この指田さんは、陰陽師だったので、天候の記載が多くあります。
安政4年10月14日、昼九つ過ぎ丑寅の方に鳴動あり、その声南に行く。
隕石落下?5年2月25日夜地震。
5年4月6日、この夜九つ時、乾(北西)より巽(南東)の方に飛び物す、その光り電光の如し、即刻艮(北東)に当たり鳴動あり、これも隕石か?
5年8月11日艮の方向に彗星みゆ。8月14日朝七つ、艮にあたり彗星を見る。
地震、台風、大雪、はやり病で大勢の人亡くなる。
時代劇を見るとは大違い、実際は大変な惨状です。
それから安政の大獄、桜田門の変、で改元で万延。

あと数日で現代も改元年号発表ですが。万延元年は実質短いです。
幕末も現代もやっていることの内容は、あまり変わりありません。
平安末期、この武蔵節の村山党、華やかなりしころとこの幕末、一般民衆の苦労の内容がほとんど同じような気がします。

桜田門の変、井伊大老の後に安藤信正が老中になり後始末、和宮さんを将軍の奥さんに、公武合体したのですが。
(個人的にこの安藤家の菩提寺に縁があり、あのお殿様もあの本尊を見た事でしょう。)

その安藤の殿様、坂下門でまた襲われところが用意万端で返り討ち。
背中をちょっと切られ、敵に背を向けたということで、お役御免。物の弾みであたったんでしょうが。それでもだめで幕閣から外された。あの優秀な人が残っていれば、幕末も違った展開があったのではないかと勝手に思っています。福島の平藩主。


ちょっとしたことで歴史が変わってしまう、戊辰戦争もそうですが。

  (-_-メ)
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安政4年

2019-03-25 14:08:11 | 日記
10月21日 萩ノ尾無宿の勝五郎、神明ガ谷無宿の留蔵、坂下の定右衛門宅にて火方(火付け盗賊改)の手先に召し取られる。いたんですね。
火盗改めはちゃんと存在しています。
安政6年黒船の件で、幕府に意見した徳川斉昭を水戸に永蟄居させる言い渡し。

(桜田門の変安政7年3月)
 (水戸浪士などが桜田門の外で老中井伊直弼襲撃。
この中にて一人駕籠訴と申し松平大隅守様門前にて井伊公へ差し出しながら切り懸け候由、三度目に井伊公切り伏せられ、余党、駕籠脇より切入り、井伊公瀬来即死4人、手負い26人、散々の戦い目も当てられざる有様なり。幕府封廻状
かなり詳しくわかっていた事が書かれています。)

安政7年3月3日(万延元年)指田日記には
大老井伊公御登城の時、桜田門外にて狼藉者16、17人不意に起こり、刃傷に及び双方即死あり。
また、手負い20人余の風聞。と書かれています。

安政7年3月18日万延元年に改元。

この辺からややこしくなり、改元があり元号もややこしくなります。

天皇に許可を得ないで勝手に条約を結んだ、それが気に食わんとして井伊大老を暗殺。
ということですか?









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安政地震

2019-03-20 09:23:45 | 日記
安政のころはこの武蔵村山では、養蚕、機織り、2年の旧暦8月13日藍2番取り入れの記述があります。紺屋の記述もありますから紺絣のできる下地がありました。
とにかく、火事、強盗、疱瘡での子供の病死、がおおいですねー。

安政地震
10月2日午後10時大地震、倉庫破裂する。明け方まで7,8度及ぶ、江戸所々焼け、吉原近辺別して大地震、火事、存命の者、10にして2.3に過ぎず。江戸中にて20万余の死人と沙汰あり。
10月3日今朝も地震、近くのお堂の石碑10にして9つ倒れる。指田さんちの碑は1つも倒れなかった。
10月4日、お客さんが来て一日中宴会。この辺んは宴会のできる程度の被害か?
10月6日、代官江川様御役所に人足、茂左衛門組より5人出す。


結婚式、葬式、火事が多く不審火のあった、けんかもあったが、近所の者が集まって相談して謝りを入れてすぐ解決。
みんなで仲良く助け合ってゆかないと、生活できなかったんでしょうね。
8月28日、伝染病(痢病・赤痢か)多く死去多き故、村方談しのうえ、痢病の邪気送り致し度きを、村中の者が集まってした。
大勢の人が亡くなり殺伐とした光景だったんでしょう。


自分のひいばあさんがこのころ2,3歳でしたが、おばあさんと両親が1月間に亡くなり4つの兄と里子に出されました。これも赤痢か?

命がはかないので、みんなで大事にしないと絶えてしまうと思ったかもしれません。
幕府が終焉には、人身不安のこのような要因が多くありました。
安政以後、まだまだ大変なことが起き明治になってゆきます。

これから安政の大獄、桜田門の変、になってゆきます。

お彼岸ですが、昔の人々が苦労の連続で助け合って生きてきた記録が指田日記に書かれています。
少し間違ったら運が悪かったら、自分は今いませんね。感謝。





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安政東海・南海地震

2019-03-17 09:07:03 | 日記
嘉永7年11月4日
昼五つ半時大地震,両三度地震。とあります。
安政東海南海地震の記述です。
それだけでこの辺には被害がなかったようで何もその事は書かれていません。
このころは、地震が多かったようでその記述が至る所に出ています。
弘化4年には善光寺地震、嘉永6年に小田原地震があり嘉永7年(安政元年)東南海。

飢饉があったり、害虫が出たり、追いはぎ、強盗、殺人、泥棒、火事、治安が悪い。
子供の疱瘡、はやり病、(病気)、密通、けんか。
出産、結納、結婚、離縁今とそうあまり変わりありませんです。

なんかあると寄り合いが開かれ解決しています。悪いときは詫びを入れていますよ。
治安が悪いので、隣近所助け合っているのがわかります。
この辺が今と違うのですが。娯楽はお祭りや,相撲の興行があったり、芝居、神楽もあります。


侍がほとんど出てきませんが、嘉永4年6月14日、三ツ木村地頭の用人がきてお寺に
4,5日滞在し、用金250両出せと百姓に申し付けるが、55両しか出せないという事で55両
持って帰って行きました。
その頃は、養蚕をしており多少は収入があったようです。

子供が疱瘡で死亡というのが多く出ています。
いまでもお墓に行くと子供の石が多い。
子供は地域の宝だったような。

人間の行いは今とあまり変わらないですが、火事、病気、犯罪は減りました。
年寄りを狙った強盗殺人は同じですが。

幕府が倒れる下地は黒船来航だけではなさそうです。
ちなみに自分のひいばあさんは安政元年この年に生まれています。

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嘉永6年(指田日記)

2019-03-15 09:22:58 | 日記
6月11日 雷 当月、異国黒船相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、
然れども、江戸に入る事能わず、諸色高直になる、
とありその後に、在在織物の類を買うもの少なく、値段安く織る者難渋す
と書かれています。

ペリーの浦賀来航が出ています。6月3日に来ました。11日記入。
何で知っているのか?
名主の所には情報伝達があったようです。
江戸湾に入れなかったことも指田さんは知っています。

このころは木綿の機織りをしていたようです。
副収入を得ようとして、機織りをしていました。また養蚕もしていました。

そこで、この辺の代官、江川太郎左衛門さんが品川沖に大砲を備えればという意見書を出して採用された。(でも落語の「品川心中」では品川沖は遠浅でというんで黒船は浅くてはいれないのでは?と思ったりして。)
(お袋さんちで年貢を伊豆韮山の江川さんちにおさめに行ったと聞いています。)

9月12日 幕府の御林にて2000本切り抜き、福生村まで出すべき由、仰せ渡さるにより村中車引き人足、御林奉行より10日の内に出し尽くすべき由に付き、隣村三ツ木、芋久保、石川、勝楽寺、奈良橋、砂川、右村々に助人足当たる。
とあります。
幕府はお台場建設のために幕府の山から松の木を切り出し大勢人を集めて福生まで運んだ。
そこからは多摩川でいかだで流した。
織物組合の北にその用林があったので、この辺は賑やかだったでしょう。

若い人がお台場お台場と騒いでいますが、そこはペリーがきたんで幕府が大砲を据えて守るためにこの村山の御用林から大勢の人を使って松の木を運んで出来た場所でした。
この辺の材木でできているんだ、お台場は。

10日間で実際2000本の松の木を運べたかはわかりませんが、9月20日御林山用車引きとあります。運んだのでしょう。

この辺から太平だった江戸幕府が揺らいできます。
今はオスプレイが黒船の代わりに来ています。



  (-_-メ)
 



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