村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

文久3年(1863)

2019-04-19 10:23:27 | 日記
この頃から攘夷決行とかで長州、薩摩が軍艦と戦争を始めました。

また前年、八王子で大火があり八日町周辺で300軒燃えたそうです。

3月異国人と合戦始まる由を申し、江戸混雑し、絣縞 2分1朱くらいに売れたのが、1分600、700ぐらいに下がったとあります。
木綿の絣縞が生産されていたのがわかります。

江戸追々混乱、お大名方の奥向きを(女性)知行所に送り御旗本の老少女子をそれぞれに知行の寺院などへ遣わす手配あり、町方もいなかの縁を求め、荷物を運び老人を送り遣わす。
江戸が戦争が起きるとのことで混乱していたのが良くわかります。

大河ドラマなど幕末ものでは、江戸がどのようだったかあまり描かれません。
4月25日戸端人別、村々見張りを置く、人数に応じ竹やりをこしらえ置き、もし狼藉もの手に余ることある時は、突き止め切り殺し候とも、苦しからず由を申し渡さる。
4月20日 夜、葺きしの安五郎宅に3人のもの押し入り狼藉に及びける故、家内の者声を揚げけるにより、村中竹やり、得物を持ち馳せ付けるに付、逃げ去る。
29日また、この騒ぎの後、密通の女をもらい受け嫁にする。とか病気が長引くので、家族がキツネやタヌキがついたのでは、と加持祈祷をした、このような愚昧なことあるわけないよとあります。

10月18日 山崎の林平宅による5つ頃6人の盗人押し込み、金子、脇差を奪い去る、この夜、砂川の原の車屋2か所に、右6人押し込み金子を奪い立ち去る。

大変な時代でした、村々一致団結をして村を守っていたことがわかります。
今のような好き勝手をしていたら?



   "(-""-)"




コメント
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