村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

残暑見舞い

2019-08-29 14:21:25 | 日記
暑い夏も終わりに近づき、熱帯夜から解放か?と思ううちに九州では豪雨。
あまり東京地方では豪雨の放送が少ないのでよくわかりません。
近頃では、数十年に一度の災害とか出ますが、そういえばおととしの放送にも数十年に一度があったっけ?
しょっちゅう数十年に一度が出ます。

この武蔵野は大きい川が少なく、多摩川と荒川ぐらいしかありません。
川の氾濫はあまり聞きませんが、アンダーパスとか都市化でできた窪地に水がたまることがあります。
この辺は排水溝が詰まってあふれ出すことがあります。

いつでしたか、で機織りをしていた時に、館内放送で大雨のため注意してくださいという放送がありました。
あまり気が付きませんでしたが、帰ってくると道が水のあふれた後。
やはり排水の関係でした。




染色するには大量の水が必要です。
糸を練った後、川にすすぎに行きました。
糸をゆすいでいると、川の中に魚が寄ってきました。


小川には鉄分が多いので若干薄茶です。
大正の頃、この鉄分を使って泥染めをしたと職人が言ってました。

           (^_-)-☆

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神風特別攻撃隊

2019-08-14 09:21:24 | 日記
8月15日にちかくなると、我々の世代はやはり終戦のことが気になります。
我々の父親はほとんどが戦争に行っています。
どこの父親もあまり戦争体験を話したがりません。
その中でも神風要員であった叔父の話が強烈に残っています。

その叔父は昭和19年7月海軍の予科練に入隊、訓練を半年受け20年1月茨木の百里が原航空隊に搭乗員として赴任しました。
その頃にはもう特攻が始まっており、その基地からも多くの人が出陣して行きました。
頭は優秀、体力抜群の人が集められていましたが、もう飛行訓練も燃料が無かったり飛行機そのものが無かったりで当然、制空権もなかったりでやっと飛べる状態でだったそうです。

パイロットが少しづつ攻撃で減ってきて、見慣れた顔がいなくなってしまう。
1月赴任の隊員は飛行技術が訓練不足のためほとんど特攻に行ってないそうです。
一緒に話をした中の良い隊員、風呂で背中を流しあった先輩が突然出撃していなくなってしまう。
あわててその先輩の部屋に行くと模造紙に敵艦轟沈とかいっぱい書いて貼ってあったそうです。
基地からの見送りには間に合わなかったそうです。

叔父の乗っていた飛行機は99式艦上爆撃機22型、機体番号はリー22か23とか。忘れたようです。もう型が古くて。

特攻に行った隊員は優秀で性格の良い人から狙ったように出撃していったそうです。
特攻隊員は洗脳教育により生きた武器にさせられたのではなく、みんなまともな判断のできる人たちで人間兵器ではなかったそうです。遺書などが展示されていますが、みんな良い青年だったのです。

叔父はみんなに話しても理解できないから、話さないと長い間、口をつぐんでいました。
自分にだけには話してくれました、95歳で今も元気です。

20年の7月にはあまり空襲もなく終戦になります。
進入してくるアメリカのパイロットの顔がよく見えたそうです。

8月になると思い出します。

       (-_-メ)


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武蔵村山

2019-08-09 11:10:20 | 日記
といえば、かつては武蔵武士の武蔵七党の村山党、村山大島紬、今は武蔵野うどん。
うどんはしょっちゅう食べています、今は創意工夫してとてもおいしいものができており、こんなにおいしかったっけ?と思うようなものが各お店で食べられます。



このような農家でお母さんがうどんをこねて、足で踏んで切って作りました。
今でも毎晩うどんを食べている家があります。

水田が武蔵野台地ではほとんどなくて、畑で麦を育てうどんにして食べていました。
うどんは地元で取れたものは少し黒味がかっています。
武蔵野は麦しか取れないので、うどんです。

武蔵武士、村山党は奈良時代、馬を生産していました
これも台地なので馬の放牧ぐらいしかできなかった。
当然、乗馬技術にすぐれ弓もうまかったので、弓馬の道そのもので活躍の場が出てきました。



今は村山党の人たちが見事な鎧を作って地域おこしに活躍です。

  (*^-^*)




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盛夏

2019-08-01 10:46:27 | 日記
ようやく梅雨が終わり、暑くなりました。
日照不足の畑ではサトイモの葉が黄緑色になっています。
だから家庭菜園が長雨のためいまいち元気がありません。

前から気になっていたことで、狭山丘陵の斜面には関東ローム層が見えるところがあります。
平らな所にでは黒土の層が1mぐらいありますが山の方にはありません。
どうして平野部にしかないのか、この黒土は何で出来ているか?
以前、自宅の前を立川断層の調査で掘ったら、1m位の黒土、その下に赤土が層をなしてあります。
赤土は火山灰土でこの辺に多量の火山灰が降ったものです。
あちこちで火山が噴火したのです。
この黒土にも火山灰が含まれています。

穴の見える範囲で4mぐらいにはこの黒土がありません。
表面にしかありません。
どうもこれが縄文人の生活の跡のようです。

この表土はかつてススキの野原であった、5~60年ぐらい前にはまだススキがいっぱい生えていました。
これらが表土のもとになったのでしょう。
これらを縄文人が燃やして畑を作っていたかもしれません。
はっきり書いてある文をあまり見ないので推測ですが。

お隣の東大和市では井戸を掘ると昔の木が埋まっているのが出てくるそうです。
その近くのシモヤケべ遺跡から丸木舟が出土しています。
わかることは今の気候と全然違うということでしょうか。

変わって、天保の飢饉の時にこの辺では野菜を売って金に換え年貢として納めましたが、野菜が取れず年貢が納められず
免除の嘆願が名主から出されたのが残っています。

天候がしょっちゅう変わっていた、ずーと同じには行かないものですね。
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