村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

梅雨入りマジか?

2019-05-31 10:38:41 | 日記
狭山丘陵の西側、瑞穂町との境に野山北公園の里山民家というのがあります。
岸田んぼがあり、農家の建物も東大和の農家の図面を復元して建てられています。
中に入ると、大変いい雰囲気です、隣の家がかつてこういう家だったので、懐かしい感じがします。
これなら、都民税払っても許せるかという感じです。
織物組合周辺にも藁ぶき屋根が多かったですが、戦後大火があって藁ぶき屋根は多く燃えてしまいました。この辺にはここ以外にはもう藁ぶき屋根の家はありません。





初夏のいい雰囲気に包まれています。



この辺の水は鉄分があって少し濁っています。
大正の頃でしょうか、この水と泥を使って糸を染めていました。この辺でも泥染をしていました。
この水は関東ローム層から湧き出た水です。

回りの丘にはいくつも縄文遺跡があります。この水を使って生活していたんでしょうね。
初夏の里山民家いい雰囲気ですよ。

     (*^-^*)

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暑くなったりして

2019-05-27 11:29:59 | 日記
雨が降らなかったり、暑かったり不思議な天候ですね。
織物製造は天気との兼ね合いでしますので、天気には敏感です。
以前は、梅雨前には糸仕事が忙しくなりました。

トランプ大統領が国賓で今日本に来ていますが、飛行機は横田基地にいると思います。
何度もエアフォースワンを見ていますよ。
警官のいろんな所から出張してきています。暑いなか警備の警官が気の毒に思います。
畑の中でも大勢おまわりさんが警備しています。
飛行機が行ってしまうと、撤収の速いこと見事な引きぎわです。

狭山丘陵には今も戦争中の防空壕が残っています。
戦争中は米軍機が飛んできてましたが。
今は大統領専用機が飛んできます。

日中暑い時は、丘陵の山の中はとても涼しくて快適です。
木漏れ日の中、気分爽快となります。

武蔵野の面影が失われてきてますが、ここ狭山丘陵はまだまだ残っていますよ。



     (*^-^*)



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文久2年

2019-05-20 12:52:13 | 日記
指田日記に戻りまして、文久2年8月に島津久光の行列にイギリス人が馬に乗って横切ったとのことで無礼打ち、生麦事件起こる。
いよいよややこしい動乱が本格的になります。攘夷実行ということで、いろいろ事件がありますが、この辺では、コロリというコレラがはやり大勢亡くなりました。

相変わらずの、喧嘩、強盗、火事。
攘夷実行ということで、江戸混乱。疎開する人あり。
この辺では、京の出来事や攘夷もほとんど知らずに、日々が過ぎてゆきます。
自分の曽婆さんは9歳、生きていました。
ひい爺さんは、結城に親戚があって織物の技術を学んでいました。

長州は下関で外国船に攘夷という事で、勝手に大砲を打ち込んで戦争となりますが、すぐに負けます。
今度は生麦事件で、怒ったイギリスは薩摩に軍艦で乗り込んでここで大砲を打ち込んで、城下が火災。逆に大砲を打ち込まれ何人も戦死。
薩摩も長州も外国にかなわないことを知り外国と手を組むようになります。攘夷はどこへ行ったか?
なんでここから討幕に行く必要があったのか?

天保の飢饉で、治安が悪くなりそこへ外国がちらほら出てきて圧力、幕府は平和ボケ。
農民は生活が大変。

以前から攘夷だったのが、短い期間で外国と仲良しに急変、鹿鳴館を作って舞踏会、こんだけよく変わりましたね。
また旗本八万騎は何をしていたのか?頑張ったのは新選組ぐらいか?
以前から不思議に思っています。

なんか行き当たりばったりの感じがします。
良く日本を見ていたのが、イギリス、アメリカ、フランス列強ですか。
お侍さんたちは、清国が列強にめちゃくちゃにされているのを知っていたのか?シッカリしなければならないと思ったんでしょうね。
庶民にはまったくわからないところで時代が動いてゆきます。

   (^_-)-☆









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武蔵野

2019-05-15 09:22:50 | 日記
ちょっと、指田日記は置いておいて。
ここは、国木田独歩の武蔵野に触れねばなるまい。
武蔵野というと良いイメージがあるようです。
校歌にもこの辺では必ず、武蔵野が入ります。

で、どこからどまで?だいたい川越市から南の多摩川まで、東京湾から西、羽村市ぐらいですか?
狭山丘陵を8年もほっつき回っていると、この独歩先生の書かれている風景にめぐりあっていることにぶち当たります。確かにそうだなあ。ここにはある。

ですがここ以外には今は武蔵野の面影はほとんどなくなってきています。
それでも、50年ぐらい前は畑はじゃり道であちこちにススキが生えていました。
小学生に時、新任の先生が「空気がきれいで良い環境」と言っていたのを覚えています。

畑ばかりで、冬は乾燥して大風が吹き埃っぽかった、新青梅街道ができるころから住宅開発が進み家だらけになりました。

狭山丘陵ぐらいが残された武蔵野の面影を想像させてくれます。
いまの横田基地の北側に、雑木林が広がっていていましたが、昭和初期に開墾して畑になりました。
今も基地の東にわずかに雑木林がありこんな感じか武蔵野と思えるところもあります。

よく、武蔵村山はいいなあ、すぐに裏山があって散歩できるし、と同じ武蔵野に住んでいる人にいわれます。
確かに武蔵野らしい風景を目にするのは、あまりありません。

独歩先生が書かれたのは今から100年以上前です。
今の風景を見たらどう思うでしょうか?

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  (^_-)-☆

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令和元年

2019-05-07 13:40:12 | 日記
大変長いお休みでした。

一日ごとに緑が変わってきています。
新緑の狭山丘陵を大勢の人たちが楽しんでおります。
狭山丘陵の上には東西に古道が走っています。
奈良の頃、武蔵国分寺の屋根瓦を入間からこの道を使って運んだそうです。



以前は関東ローム層の赤土の道で雨が降るとドロドロでとても歩けるような道ではなかったですが、東京都が道の整備をして雨でも通れるようにしました。狭山自然公園として整備しました。



狭山丘陵から南の方向を見ました。手前に武蔵村山市、中に横田基地、その奥に多摩丘陵、丹沢が見えています。

50年ぐらい前までは畑ばかりでしたが、今は住宅が密集しています。
東京でも丘陵があるのは少なく、いろいろな歴史があります。

なお一番手前はミカン畑ですよ。

   (*^-^*)
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