村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

連休

2016-04-28 14:39:28 | 日記
間もなく連休が始まります。
新緑がきれいになり、ようやく暖かくなりました。
今は、ツツジが赤く狭山丘陵を染めています。
もうおじさんなので、休みはどこかに行こうかと言う事はないです。
何処に行っても渋滞で混んでいるので、特に中央高速、関越高速出たくないです。

狭山丘陵を散歩がなかなかいいです。
どこかのおばさんが「もう半日も歩いています」と言ってました。
徘徊?
自分も歩きすぎて、足にまめができました。
歩けど歩けど目的の所沢のお寺の桜の木につかない、道を間違えていました。
「すぐそこにきれいなところがあるよ」そのすぐそこが人によって違います。
ちなみに「すぐそこは」あるいて40分のところでした。

道端が動いているのでよく見るとアオダイショウの大きいのがいました。
坂道を上がるとマムシが頭を上げてこちらを見ています。
タヌキが走ってきてあぶなくぶつかりそうになったりして。
草ぼうぼうの小さな谷戸があり、ここは確か弥生時代の遺跡だったはず?
がどうみてもヘビの巣。

縄文の遺跡もあります、足で落ち葉を払うとやけに白っぽいかけら。
土器の破片でした。
ディズニーランドよりはよっぽど楽しいです。
人が大勢いてわいわいしているところより、ヒキガエルやヤマカガシのにらみ合い
を見ているほうがおもしろいです。
第一、裏山散歩では渋滞がありません。
(/・ω・)/
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村山大島紬

2016-04-19 21:12:46 | 日記
村山大島紬というのは、細かく分業されて製造されます。
各分野には専門の熟練した職人が携わってできるものです。
原糸を織物に使えるような糸にするには、精錬、染色、乗り付け、などさまざまな
工程を経ます。原糸から織れるようにするのには、数か月を要します。

ちょうど一つの音楽を作るようにそれぞれの技術工夫の集大成で織物になります。
ですからどこかの工程で間違いがあると進みません。
また、温度、湿度、天候になどにより微妙に調整が必要になります。
したがって大変な熟練が必要となります。

機織りは織ること自体は平織ですのでそんなに難しくはありませんが、縦糸が微妙に
伸び縮したり縦糸に絣を合わせる、また糸が切れたりすると応用技術が難しく大変に熟練と忍耐
を必要とします。
実際は図案を頭の中に入れてどこの位置にどの糸が来るかわかっていなければなりません。

織機は完全になっていないと織れません、最終的には機械の動く音でどこの部品が
どう動いているかがわからなくてはなりません。
木の織機では、紐の微妙な調節が必要です。斑にならないように気を使います。

染色も特に絣染色はかなり難しく、斑が出たら織れません、織ったら傷物になります。

男物は女物と構造が全く違っています。横糸は4種類の糸を織り交ぜて柄を出します。

私は先祖代々150年以上織物の仕事に携わっており、子供のころより糸を触っています。
それでも分野が違うとわからないことばかりです。
自分の場合、糸仕事ができるようになるのに3年かかり、織機がわかるようになるのに
5年でかかりました。それでもわからないことだらけです。
縦糸の柄作りはわかりません。

全国の伝統工芸品はほとんど同じ内容かと思います。

この地は水がなく畑だけですので、収入を得るために織物が必要だったのです。
だからこそ、この難しい技術をマスターして生活の糧としたわけです。
したがって、誰でもできるような簡単なものではまねされてだめだったわけです。

それだけ先人が苦労して開発した技術も、現代では生活が変わり受け入れられなくなって
しまっています。工芸品全般に言えることです。






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新年度

2016-04-14 17:54:00 | 日記
新年度が始まり、フレッシュスタート。
織物組合は役員改選になります。
任期は2年です。以前はだいぶもめたことがあるようです。
今は後継者育成とか産地の技術を伝えるとかいろいろあります。

この地には奈良時代に朝鮮半島から帰化人が織物の技術を伝えたようです。
埼玉の高麗川というところに神社がありその帰化人の集落があったようです。
というか、この武蔵野の開拓は帰化人がしたのではないかと思っています。

どっちにしろ、織物の歴史は千年以上はあるわけです。
この武蔵野というところは、原野であったようで、人が住めるような場所では
なかったような気がします。というのも、水がないのです。
したがって古い建物など中世のものがほとんどありません。
コメが取れないから、麦を作る。で、うどんを食べる。

前の横田基地ができる前には、キツネが住んでいてよく人を化かしたそうです。
キノコの山もありました。
玉川上水ができてから畑ができるようになった、大変苦労したことと思います。
その武蔵野を開拓したのが、武蔵村山の人が多かったそうです。

裏山の狭山丘陵にはこれからいろいろな花々が咲き出します。
桜の次はつつじ、かたくりはもう終わったか?
水たまりにはオタマジャクシでてきます。
以前はカエルの大合唱が聞こえたのですが、宅地開発で今は、ほとんど聞こえません。

狭山湖上流には小川が流れていたり、崖があったりします。
二輪草の群生地があったりします。
そこには大昔に多摩川が流れていました。
その辺の小川にもちゃんとした経歴があります。
トトロの住んでいる西側です。

縄文の遺跡もかなりあります。知人が土器の破片が落ちているというので、
足で探ったらいくつもありました。
古くから住んでいたんですね。
こういうところで、村山大島ができていました。


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さくら祭り

2016-04-02 13:32:51 | 日記
4月2.3日武蔵村山市横田児童遊園で開かれています。
さくらが若干寒い中、元気に咲いています。
その中で村山党出陣という行列に着物を着て参加しています。
この地は鎌倉武士集団武蔵七党村山党の本拠地の伝承があるところです。

武蔵野地は鎌倉武士の集団がいくつもあった所です。
承久の変でこの鎌倉御家人が全国に散って武家政権の基礎になりました。
金子十郎という武士が保元平治の乱で活躍しました。
で、この行列の主題になったのです。

そこに村山大島紬を着たお女中として時代考証を無視して参加しました。
会場の周りには古代遺跡がたくさんあり、かつて村山党の武士団がこの地武蔵野を
馬に乗って駆け回ったのは間違いないと思います。

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