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村山織物協同組合のブログ

武蔵野と狭山丘陵

貯水池

2020-08-26 09:38:18 | 日記
織物組合から北に行くと、カタクリの湯という沸し温泉がありすぐ北に多摩湖があります。
人造湖で真ん中に堤防があって左右に分かれています。
その北に狭山湖という人造湖がもう一つあります。
ちょっと見ると3ツあるように見えます。
ここは明治の頃、東京が発展するにはさらに水源を確保する必要があったので人造湖を作ろうという計画が立てられました。
地図で見るとわかりますが、東京都と埼玉県がある境に狭山丘陵があり、その中に大昔に多摩川が流れて浸食した谷があり、そこをせき止めて湖を作ったのです。

水は多摩川から、青梅市友田、羽村の2か所から取水して地下に導水管を掘って水をひいています。
武蔵村山市のど真ん中の地下をその導水管が通っています。
昭和9年に完成しました。

貯水池ができる前の写真を見ると大変のどかな奥多摩とはまた違った風景が残されています。
ここに湖が無かったらさぞや別天地であったでしょう。
当然、湖底に沈んだムラがあり周辺に大勢転居しました。

貯水池の完成前の昭和3年に織物組合事務所が作られました、貯水池より何年か先にできたわけです。
(まあ古いこと)92年建ってる


   上は多摩湖です
     
     (^^)/
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中藤

2020-08-17 10:32:47 | 日記
織物組合の東側に南北を通る道があります。
狭山丘陵の中央を通る道です。

狭山丘陵は西側に瑞穂町箱根ヶ崎に南北を通る道(日光街道)があります。
東側、東村山には南北に鎌倉街道が通っています。
狭山丘陵には狭山湖、多摩湖という人造の貯水池があります。
明治の頃、東京の将来を見越して水源確保と言う事で作られました。
完成は昭和2年です。

貯水池ができる前は勝楽寺というがありました。
そのために多くの住民が転居することとなり、集団で移転した所もあります。

この中央の道(中通り)を通って所沢の市日にこの地で出来た木綿絣が販売されました。
(中通り→中藤)
明治大正、原反が荷車で引かれて行くのが見れたでしょう。
よく所沢の市が立ったと聞いています。



    (^^)/ 暑い中ごくろうさんです。





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神風特別攻撃隊

2020-08-12 09:03:04 | 日記
この時期になると、どうしても太平洋戦争の事を考えざるをえません。
同世代の父親はほとんどが戦争に行っていますし。
叔父たちもほとんど行っているんで戦争の事を聞かされています。

子供のころ神風が空母突入の実写を見ていまして、なんとも言い難い思いがしていました。
一人の叔父が海軍予科練を出て航空隊に入隊していたのは知っていましたが、終戦まじかだったので飛行機に乗っていなかったと思っていました。
ほとんどの人が戦争の事を話さないので、叔父がまさか搭乗員パイロットだったのをつい最近まで知りませんでした。
本人から直接聞いたら、昭和19年7月海軍の予科練に入り訓練を受け、20年1月に茨城の海軍百里原航空隊に配属されました。いまの百里基地です。
もうその頃は特攻が始まっており、特攻要員としての配置でした。
99式艦上爆撃機22型立川で製造されていたものだそうです。

予科練に入って半年後に下士官として基地に入りました。
燃料はないし飛行機はないし訓練をろくに受けられなかったそうです。
制空権がアメリカに取られているので、昼間は隠れて夜活動。
仲間の搭乗員が少しずつ減ってきて、出撃して行きましたそうです。

中でも仲の良い搭乗員が出撃していくところは聞いていて涙がでてきました。
部屋には模造紙に空母撃沈とか書いてあったそうです。
突然の出撃なので別れを言うこともできなかったそうです。
みんな黙って出撃していったそうです。

叔父は特攻隊員は頭を洗脳教育されて人間兵器にされたように思われたが、優秀な若者がちゃんとした考えをもって行動していたという事を伝えてほしいと言ってます。
搭乗員はほとんど戦死なので、直接の話を聞くことはほとんどなく貴重な体験でした。
94歳で健在です。

    (-_-メ)

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やっと梅雨明け

2020-08-05 10:23:47 | 日記
ようやく長い梅雨が明けました。
明けましておめでとう。という感じです。

武蔵村山の幕末の指田日記に養蚕で女性が稼ぐようになって、旦那さんが遊び人になって博打に行くようになって博打場に
用心棒の浪人がいるようになったとあります。

水戸黄門や長七郎や木枯らし紋次郎、座頭市の世界が現実にあったのです。
武蔵村山の周辺のかつてのムラが幾つか集まって幕府が管理して、その警察署に当たるものが昭島の拝島に置かれていました。
裁判などがされて斬首など処刑が行われてました。
当時人間の肝臓が薬になって、いい肝が入ったんで必要か?と指田さん聞かれそれが知っている人だったんで断ったとあります。
その罪人自分の家の近くになります。

経済的に養蚕で奥さんが働いて豊かになって旦那が遊び博打ができて用心棒ができ治安が悪くなった。
それで、防備のために剣術を農民が学ぶようになった。

無宿人、強盗、人殺しが起こり治安が幕末悪かった。伝染病、飢饉、地震など大変だったようです。
指田日記、幕末の中藤の神主さんが書いたものです。
日常の事が書かれており、大変面白いものです。
何の伝染病か、かなり死者が出ています、祈祷とか神社参りとかそのくらいしか治療がなかった。



    "(-""-)"
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