飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年7月 吉野・宮滝

2010年04月15日 | 思い出の大和路探訪
<1987年7月5日 万葉の大和路を歩く会「水たぎつ吉野宮滝」>

 吉野山を登り峠から喜佐谷を下って宮滝に至るハイキングコースで、
ふたりの万葉学者の先導で充実した万葉の旅であった。

コース:近鉄吉野駅・・・金峯山寺・蔵王堂・・・稚児松地蔵・・・喜佐谷・・・象の小川・・・宮滝-近鉄大和上市駅

講師:武庫川女子大教授 清原和義氏、大阪大学名誉教授 犬養孝氏



近鉄吉野駅


金峯山寺仁王門
額に「金峯山」と書かれた「仁王門」は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれたが、1455年(康正元年)再建された。


金峯山寺蔵王堂
1586年(天正14年)焼失後6度目、1591年(天正19年)東大寺大仏殿に次ぐ棟高34mの国宝・蔵王堂が再建された。重層入母屋造、桧皮葺で日本最大の建物。


吉野朝址
京都花山院を抜け出し、導かれて吉野へ入った後醍醐天皇は、始め吉水(きっすい)院を行宮とされていたが、そこが手狭になり、蔵王堂の西下に在った実城寺(じつじょうじ)を行宮にされ、寺名を金輪王寺(きんりんおうじ)と改め、終始京都へ帰還する事を願いながら、ついに1339年(延元4年)ここで亡くなった。


金峯山寺蔵王堂から中千本へ向かう途中のみやげ店がつづく道


上千本より蔵王堂を下に見る


万葉の忘れ草(現在のカンゾウ)
「忘れ草 我が下紐に 付けたれど
醜(しこ)の醜草 言(こと)にしありけり」(大伴家持)


稚児松地蔵 上千本から喜佐谷へ峠付近にある


象(きさ)の小川の源流
「吉野宮滝万葉の道」の祠の背後に「象の小川」が流れており、丁度そこは写真の様な「高滝」で、落差約10m、清洌な飛沫を上げている。


前夜の雨で増水している川を渡る


滝の上の三船の山は恐(かしこ)けど
思ひ忘るる時も日もなし


象(きさ)の小川
谷を埋めつくすばかりの杉と桧の美林を抜けると、喜佐谷(きさたに)の集落で、上千本から下って来た「象(きさ)の小川」は、青根が峰を源とする「喜佐谷川」と合流するが、万葉時代には今の「喜佐谷川」も「象の小川」として歌に詠まれている。

「昔見し 象の小川を 今見れば
いよよさやけく なりにけるかも」(大伴旅人)  →万葉アルバム


左:象山、右:三船山


喜佐谷の集落(右奥が吉野)


桜木神社(天武天皇を祀る)
「喜佐谷川」に沿って舗装されてなだらかな平坦の道を下ると、「桜木神社」がある。天武天皇が、まだ大海人皇子(おおあまノおうじ)と云われていた頃、兄の天智天皇の近江の都を去って、吉野に身を隠していたが、ある時、兄の子(甥)大友皇子の伏兵に攻められられると、傍らの大きな桜の木に身をひそめ危うく難を逃れたという。


「み吉野の 象山のまの 木末(こぬれ)には
ここだも騒ぐ 鳥の声かも」(山部赤人) →万葉アルバム


吉野川 夢のわだ付近
「桜木神社」から「喜佐谷川」に沿って下って来て 「喜佐谷川」が「吉野川」に流れ込むところが「夢のわだ」、写真の左で白くなっているところ。

「我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ
瀬にはならずて 淵にありこそ」(大伴旅人) →万葉アルバム


「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の
絶ゆる事なく またかへり見む」(柿本人麻呂) →万葉アルバム


犬養孝氏による説明風景


左:犬養孝氏、右:清原和義氏


吉野離宮址の中荘小学校
「柴橋」を渡ると吉野町宮滝で、橋のたもとに石碑が建ち、中荘小学校の校庭が見え、校舎の裏に吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」が在り、また遺跡の北側から飛鳥時代以後~平安時代初期の建物跡も発見され、656年女帝斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記された「吉野離宮」と推定されている。


柿本人麻呂の歌碑
「見れど飽かむ・・・」 →万葉アルバム