それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

<場>へのフェティシズムへの憧れ

2012-03-28 22:47:09 | コラム的な何か
私の友人のなかに、<場>に非常にこだわりを持った人たちがいる。

そういう人に僕は強い憧れを抱いている。

こうした友人と言ってすぐに思い浮かぶのは、EとTさんの顔。

年齢はふたりとも僕よりも上なのだけれど(Eとはちょっとしか違わないが)、年齢の問題以前に僕は永久に彼らよりも大人になれないんだろうなあと感じている。

ふたりにはとっておきの場所、ひとりで行きたい場所、誰かと行きたい場所、そういう思い入れのある色々な場所が日本にも海外にもあるらしい。

これだけだと、まだふたりのフェティシズムが伝わらない。

ふたりはもっとある特定の<場>に深く関わろうとする。

見るとか遊ぶだけじゃなくて、そこで働くとかってことも含めて<場>を考えている。

でも、まだこれでは足りない。

ふたりと<場>の関係はもっと密接で、<場>とアイデンティティが結びついている。

「ある特定の<場>にいる自分」をどう考えるか、よく考えている。

僕から見れば、考えすぎというか、感じすぎというか・・・。

残念ながら、僕にはそういう感覚が全くなくて共感するのは難しいのだけれど、でも、おそらく彼らの感覚の裏側にはそもそも僕とは根本的に異なる主体性みたいなものがある、と感じている。

この人たちの自律性というか、「私」というものが、<場>というものを求め、あるいはそれを自らに引き寄せる動因になっているのではないかなと思う。

「私」がかなりはっきりと存在していて、その「私」がどこに存在するべきなのかにすごく拘っているのだ。

それはとてもかっこいい。

それは本当にかっこいい。

そういう感覚がもし僕にあったら、僕は全く違う感覚で生きているだろうと思う。

自分のこのブログにはそういう感覚が希薄で、なんというか、どことなく幼く少しふわふわしている。

そういう自分を僕は積極的に認めたいと思うし、そういう自分だからこそ感じられることがあると思っているけれど、でも、その友人ふたりにはどうしても憧れてしまうのであって、やはり何度も会って話を聞いて、少しでもどこか近づきたいという思いがある。

この友人ふたりは、そういう僕の幼さをとても良く理解している。

というか、僕の友人の大半は僕の幼さをとても良く理解しているのだけれど、なかでもこのふたりはそこを心配している(笑・よく考えると、ふたりの性格はとても似ている。ふたりはとてもスマートで、隠れ努力家で、長男・長女タイプで、現実主義的ではあるがロマン主義的でもあり、非常に優しいがかなり厳しくもある)。

彼らは僕に大人の所作とか趣味とかをちょいちょい教えてくれてきたのだけれども、僕が馬鹿野郎なので一向に学習しない。

ただただ、感嘆して終わる。非常に申し訳ない。

でも、だからこそと言うべきか、またふたりにどこかへ連れて行ってもらって、何か教えてもらいたいと思っている(Eとはしばらく会っていない。なんだか忙しそうだ。日本に帰ったらいつか会えるだろう。このブログを読んでいるのだろうか。どうだろうか)。

急にそんなことを思い出した今日だった。

(というのも、ふたりとも今年に入って急にブログで自分たちの人生の転機についてのエピソードを語っていて、それをさっきさらと読んでこんな話を書くことになってしまったのだった。)