それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

音楽がパクリかどうかの議論に欠けている論点:パクリにこだわる人間の能力の問題

2012-03-26 22:01:55 | コラム的な何か
ある音楽がパクリかパクリじゃないかという議論がよくあるが、いつも思うのは、一般の人の認識している音の世界と、一流の作曲家、特に音大出身で何でも書けてしまう作曲家の認識している音の世界がかなり違うのではないか、ということだ。

音楽の才能にひときわ恵まれた人間は、認識している音の一単位がおそらく相当大きい。

聴いた音楽の縦(例えばコード)と横(一度に認識できる旋律と律動)の脳内での再現率が、一般人の何千倍、何万倍だと考えられる。

例えば、クラシックの交響曲の楽譜をみてほしい。それは単にコツを覚えれば作れるような音楽ではない。

クラリネットの音域やチェロの音域が分かっていれば書けるというものではない。



そこから何が言えるか。

まず、こうした一流の作曲家は、いくつかの旋律やコード、律動を頭のなかで再現することにかかるコストが異常に低い。

だから記憶することも楽だし、それを再現することも通常の人間が考えているよりもはるかに楽だ。

それゆえ、既存のメロディが頭のなかから出てきてしまう場合、かなり正確に元々の楽曲が再現される危険性が高くなる。

それがどの曲なのか、あるいは自分で思いついたものなのか判然としない場合、かなりそっくりなものがオリジナルとして発表される可能性がある。



もうひとつ、さらに重要なことがある。

一般の視聴者の大半はこうした一流の作曲家の能力を持たない人間である。それゆえ、認識の単位が小さく、ある特定の旋律の一部が再現されたり、コードが再現されただけでも、とても大きなパクリであると考えてしまう。

だが、もし一般の視聴者が全員、現在よりもはるかに高い音楽の認識単位を持っていたらどうだろうか。

どこまでそっくりだとパクリなのかの単位が間違いなく変わるだろう。



これは律動についても同じことが言える。

日本人は律動の認識単位が少ない。大半の視聴者はスウィングもポリリズムも認識できていない。文化的に異質だから、ちゃんと説明を受けないと頭のなかで認識するのに必要なモデルが形成されない。

それゆえ、律動がパクリかどうかなど、考えない。つまり、旋律とコードのみが重視される。特に歌謡曲の旋律はどんな馬鹿でも聴けばある程度認識できるので、どうしても旋律偏重になる。



ここまで議論してきて、読者諸兄はある特定の楽曲がパクリかどうかこだわるのはどういう人だと考えるだろうか。

それは言わずもがなであろう。

ルパン新シリーズのPV公開

2012-03-26 15:24:42 | コラム的な何か
風邪をひきました。今日は少し回復。

さて、前に書いたルパン新シリーズの準備記事ですが、新シリーズPVが公開され、音楽の一部もそこに流れております。



菊地がこれまで培ってきた音楽の様々な文脈がこの一曲のなかで見事に調和している。

フェイクタンゴが基調になっているが、現代クラシックやポリリズムといった菊地が得意とする領域の色も見える。



まず最初に見て感じることは本当にセクシーだということ。

今回のシリーズは峰不二子がメインにすえられており、自ずとセクシーなアニメになると予想されるが、フェイクタンゴが基調であろう本曲も不二子以上にセクシーなものだ。

他方、現代クラシック的な無機質な旋律は、大人のハードボイルドな世界観を想像させる。

それがタンゴというだけでなしに、(3、4、5拍子が並行した)躍動するポリリズムムにのって視聴者の鼓動をさらに高める。



準備記事でも書いたように、アニメやドラマの音楽と社会の関係はこの30年の間に大きく変わった。

オリジナルのルパンが発表されたあの時代から日本は大きく様変わりし、ある意味では成熟してきたとも言える。

アニメのレベル自体はその当時では考えられないほど上がった。

こうした時代の要請に応える音楽はもはや大衆的なものではないであろうが(準備記事で示唆したとおり、そもそも大衆的な音楽というモデルが瓦解したのであるから)、しかし、クオリティが高ければ必ずだれかが評価するだろう。