それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

震災のこと

2012-03-11 22:40:48 | 日記
今日は沢山、震災のことを考えていた。

NHKスペシャルを見て朝から言葉を失ったり、自然災害に関する論文を読んだり。

災害で生じる人の痛みは大きいし、数もきわめて多い。

個別の物語に入り込めば、痛みは抱えきれるわけもない。

痛みへの共感は行動を起こすための力の源泉だ。

他方で、それは政治・社会的な思考も支配する。何をしてはいけない、何をすべきだ、・・・。

言論も自由ではなくなるし、現場で起きている色々な闘争も痛みへの共感とうまく噛み合わなければ無視される。



とはいえ、僕は誰かに何か言いたかったのだけれど、言葉がどうしても出てこなくて。というのも、自分のなかに存在するであろう沢山の欺瞞が全く扱いきれる類のものではないと感じたからだ。

どうにもならないので、僕は色々考えたあげく、フォーレの「レクイエム」を何度も何度も聴いた。

フォーレの「レクイエム」はところどころ明るい。この状況で重々しい悲壮な曲を聴くのは不可能だ。

「レクイエム」はもちろんキリスト教の教義に基づいている。

フォーレのそれが厳密言ってキリスト教の教義やレクイエム一般の慣習から多少ずれていたとしても、やはりそれはキリスト教のレクイエムだ。

歌詞を確認していくなかで、「歴史的に無数のとんでもなく深い痛みに対応してきた宗教は、やはり人々に救いを与えるように出来ているなあ・・・」と思わずにはいられなかった。逆にその痛みを惹き起こす原因になってきた側面があるとしてもだ。



結局、誰に何を言ったらいいのか分からないまま、僕の3月11日はそろそろあと1時間で終わろうとしている。

僕は年末に強く思っていた。2012年は暦の上では来るが、実質的には来ないと。

こういうすべての僕の言葉は欺瞞だらけだろうか。

五月病の無い世界

2012-03-11 00:42:15 | イギリス生活事件簿
ラケルとアレックスと話しているうち、五月病の話になった。

なったというか、僕が五月病の話をした。

が、全然五月病が伝わらない。

「日本では春になると、みんな鬱になるんだけど、ならない?」

皆、「ならないよ、冬じゃなくて?」と言ってくる。

「冬は問題じゃないよ、春が危険なんだよ。」

しかし、彼らは理解しない。というか、五月病なんて概念がヨーロッパには無いらしい。

イギリス代表エースも来たが、やはり理解しない。



五月病の無い世界!!

毎年毎年五月病になるというか、3月くらいから早くもなってしまう僕にとっては信じられない世界。

そんな世界があるのか。

と考えていたが、引っかかる。違う。何かが違う。

そもそも五月病なんて存在するのか?本当に五月病なんてものがあるのか?

『いや、あるよ。五月病になるって、みんな言ってるよ。』(僕の心の声)

ねえ、それって五月関係あるの?

『春だから、あれだよ、なんか・・・、そう、性的な目覚め、高揚と不安のコンビネーション、』

本当にそうかな、五月病って自然環境からの影響なのかな?

もしかするとそうじゃなくて、五月病なんてものは、僕らが「五月病は存在する、春はそれに罹る」と思いこんでいるから罹っている気がしているだけじゃないのかな。

あるいは、僕ら自身が五月病に罹ることを欲望しているんじゃないのかな。

『どういうこと?』

分からないけれど、要するに五月病なんてものは本当は存在しないんじゃないかってこと。

五月病はあくまで僕らの幻想と欲望の産物なんじゃないかってこと。

あれ?それにしても、最近、どうしてこんなに鬱々として寂しんだろ・・・(嘘です)。