それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

草稿提出

2011-09-06 09:18:49 | 日記
共著の原稿、最終締め切り(いよいよ出版社へ)。

前回の共著のときは掲載決定から11回の駄目だしで、性根から叩き直された。

今回は成長したのか、それとも別の理由からか、駄目だしは2回で根本的に修正するということはなかった。

それでも自分の未熟さは痛感せざるをえず多少落ち込んでいるが、プロジェクトは素晴らしく創造的で、たくさんの収穫があった。

また、今回の共著は全体で一貫性が重要だったため、今までとは違う「協調性」のようなものを要求され、それに少し戸惑った。

自分の寄与がどれほどあったのか分からないが、自分なりにベストを尽くせたし、自分の分野としても日本語では非常に新しいものを書けたと思っている。

今回の日本での連戦のなかでまた新しい論稿を書かねばならないが、それへの弾みになればと思う。

ちょっと前向きなことを書いてみたよ。

教えるのではなく、考えてもらうことが大事

2011-09-04 12:13:21 | 日記
彼女にピアノを教えている。

その実力は5歳児くらいである。

なにせ一度も弾いたことのないものだから仕方ない。

しかし彼女の演奏や練習を聴くのはすごく好きだ。

彼女が何を考え、直面した困難にどう立ち向かうのか観察するのがとても面白いからだ。

僕は知っている。どうすれば彼女の問題点を克服できるのか。

楽器というものには、効率的な練習方法がある。

でも僕は何も言わない。

おそらくほとんどのものがそうだろう。何事も人から聞くより、自分で発見した方が学習効果が高い。

教える人は発見のヒントと、正しい方向に進んだ時のOKサインを出す以外、実際、出来ることは少ない。

大事なことは問題点を本人に知ってもらうこと。そして、考えるきっかけを作ること。

問題点に気付かせることが本当に大事なのであり難しい。

たいてい問題があることが分かっていても、どこに問題点があるのか分からないから。

同じような教訓を最近、ふたつの事例で発見。

ひとつはラジオで聴いた「脚本のお医者さん」の話。

もうひとつは僕のイギリスの指導教官からのメール。

人間は永遠に生徒なのだろうなあ。

探星

2011-09-02 00:37:59 | ツクリバナシ
星が光っている。

彼女は手を伸ばしてそれを食べた。

星はそれでも光り続ける。

お腹のあたりで光っている。


星を食べると本心が分かると、

おばあちゃんは僕に言った。

ウソをついたぶん曇るんだって。

君の星は光っている。


次は僕の番だ。

警察官が来ると何もなしに怯えるように、

僕は少し怯えている。

僕も知らないウソが僕のなかに隠れていたらって。


星に手を伸ばして、口に運ぶ。

光が一瞬消えて、

「え?」っと思った瞬間に激しく光った。

ねえ、おばあちゃん、これはどういう意味?