それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

パーティ

2011-09-24 16:12:05 | 日記
サークルの愛すべき後輩の祝いのパーティに参加した。

遅刻してしまったが、なんとか義理は通せたと思う。

自分の過去が今の自分にとってどれだけ恥ずかしいものか思い知りつつ、色々無かったことにしたいと思ったけれど、

しかし、多くの人を巻き込んで、多くの人の人生と関わった数年間、それはやはり責任を伴うものであり、

その責任からは逃れようもないのだと僕は改めて知ったのである。

本当はもっと大事なことを話たかった。

でもそれは無理で、そういう場でもなかったし、あくまで義理を通すための儀式。

祝いの本番の日取りは決まっていたのだが、明らかに僕はそのとき日本にはいないため、おそらく今回がその代替になる。

(ただ、そうはっきりと件の後輩に言うことがどうしてもできなかったのだが・・・。)

僕が今心の深いところで感じていることや考えていることを、いつか後輩と共有できるだろうか?

それは分からない。

ただ、自分が今出来る限りの範囲内で義理を通しながら、やるべきことをやるしかないのかもしれない。

僕は今すごく孤独な気分だ。

でも、もう僕は思春期ではないわけだから。

でも、言いたい。せめてここでだけでも。もっと大事なことが話されるべきだったと。

(もちろん、一次会が終わってすぐに帰った僕が悪いのだが。ただもう限界だった。頑張ったと思う。)