消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 71 継体と2月4日

2007-02-15 01:11:37 | 人(福井日記)
 近年、悪名が高くなった『日本書紀』によると、2月4日(継体元年2月4日、西暦では507年3月5日)は、継体が樟葉宮(くずはのみや)で即位した日である。

 丁度、1500年前になる。枚方市市民会館で、同日、「樟葉宮1500年記念事業、渡来人の里・枚方と継体天皇」が開催された。1200人も集ったという。

 福井県からは、坂井市の「越の大王祭保存会」が六呂瀬山古墳群(私の下宿の近く)に眠る越の王たちに捧げる「越まほろばの舞」を披露し、永平寺町(私の住む町)の「越の国・里づくりの会」が、越の四季をテーマにした創作歌を紹介した。

 大王を祭神とする足羽神社(福井市)では、継体大王即位1500年を記念した奉祝祭が同じく平成19年2月4日に開かれた。

 福井県は、継体即位1500年記念の年に当たる今年、かなり大々的に宣伝する意欲を示している。私も楽しみにしている。

 継体の力の源泉は、いうまでもなく、治水であるが、国際感覚と、国際交通の技術もあったのではないかといわれている。

 永平寺町には古志(こし)という地名がある。おそらく越という言葉を嫌ったのであろう。奈良の都から見て、木の芽峠を「越した」先が越前である。

 
越前という言葉も差別用語の臭いがする。そこで、地元の人たちは「古志」と自らを称したのであろう。

 出雲市の中央部に「下古志」という地名の地区がある。
 
この地区には、『出雲国風土記』に出てくる「宇加池」(うかのいけ)と記載された「宇賀池」がある。これは、いまの福井の古志の国からやってきた技術者たちが築いた堰堤の名残だとされている。同町や隣の古志町を総称して、一帯は、8世紀頃、「古志の里」と呼ばれていた。

 『出雲国風土記』は733年に編纂されたことが分かっている。
 
イザナミノミコトの時代に匹敵する、はるかに大昔、古志の国の人たちが、日淵川(現在の保知石川=ほじしかわ)を利用して池を作ったと記載されている。技術者たちの宿営地が「古志」と呼ばれるようになったのであろう。

 福井市では、継体の誕生前の時代、つまり、古墳時代前期に、すでに灌漑設備の遺構が発見されている。

 
曽万布遺跡では、数十本の杭に芦などを絡めた柵(しがらみ)を作り、石を積み上げて川の流れを変えた跡がある。

 少なくとも、当時の日本では、図抜けた治水工事の技術を、古志人たちは、もっていたのだろう。

 それに、出雲に招かれたということ、つまり、大和朝廷に対立していた出雲と濃密な接触があったということは、かなり古代史にとって暗示的である。

 1500年記念行事の中で、治水事業はもとより、継体の大陸との関係が明らかになってくれたらと胸を躍らせている。

 この文章は、平成19年2月5日の『福井新聞』による。