消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 68 習合体である日本の宗教

2007-02-08 23:40:07 | 神(福井日記)

 末木氏は、土着の神が仏法を保護してきたのも日本の神のもうひとつの姿であったという。



 
氏は、その例として八幡宮を挙げる。『続日本紀』には、大仏建立のさいに、宇佐八幡宮の神が奈良の都に来訪したという記述がある。天平勝宝元年(749年)のこととされる。


 そう言えば、私が人生の大半を過ごした須磨に墓地のある那須与一は、平家の舟の扇に矢で射るときに、「南無八幡大菩薩」と念じたという。日本の神さんが仏教の菩薩になってしまっていたのである。

 八幡神は、元来が北九州の土着の神である。
 
海や銅山を守る神であった。平安初期に「八幡大菩薩」の称号が与えられている。東大寺には快慶の作とされる僧の形をした八幡像がある(僧形八幡)。仏教によって神が認知されることを「尊格」というそうである。

 梵天さんも、帝釈天も、そもそもがインドの神さんであったはずなのに、仏教において高い「尊格」を得ている。



 
梵天さんは仏教では、「色界」の「初禅天」に属する。これは護法の諸天の最高位の「天」である。帝釈天もベーダではインドラ神という最高神であるのに、仏教でも「欲界第二天」に住まわされ、梵天と並ぶ護法の神である。


 そして、仏が神の姿となって神の国にくるという本格的な本地垂迹の考え方が奈良・平安期に定着する。


  なんと、神道ではもっとも大事な天照大神は大日如来、盧舎那仏のことであるとされた。日吉(ひえ)は釈迦とされた。



 山王宮曼荼羅の絵図が奈良国立博物館に所蔵されている。
  画面下部には比叡山の鎮守である日吉神社が描かれている。画面中部には日吉神の神体山である八王子山が描かれている。画面上部に仏とそれに対応する神が描かれている。全部で21の仏がある。



 末木氏によれば、本地垂迹の発想は、道家にあったという。この発想を本格的に採用したのが、天台の『法華経』解釈であったと末木氏は理解されている。


 
以前にすでに紹介したが、歴史上の釈迦の説法を伝えるのは、人々の覚醒レベルに応じたもので、まだ本当の仏の姿ではない個所が前半部分で説明され、これを「迹門」(しゃくもん)と呼んだ。永遠絶対の仏の出現を説くのが、後半部の「本門」と呼ばれる部分である。


 そして、日本では、荒ぶる魂である「御霊」を鎮めたいとの「御霊信仰」が生まれるが、末木氏の解釈によれば、これも、天台の本地垂迹の影響を受けているのではないかという。



 
北野天満宮は延喜3年(903年)に恨みを残して死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために建立されたことは多くの人の知るところのものである。

 身近なことなのに、意外に私たちに知られていないことがある。日本の三大祭りの祇園祭りもこの御霊信仰によるものであるということである。


 
そもそも祇園祭りの中心である
八坂神社は、神仏習合のお寺にして神社である祇園社を出自としている。


  祭られているのは
牛頭天皇(ごずてんのう)である。この神様は陰陽道における疫神である。日本では素戔嗚尊と習合している。この御霊を鎮めるのが「祇園御霊会」である。それが祇園祭りと呼ばれている。


 もとより、いろいろな説があり、こうした説話のどれが正しいかを断定してはならない。それでも、御霊信仰の一つが祇園祭りであった可能性があることは、京都ゆかりの人たちも知っていた方がいいだろう。



  祇園さんは、京都だけのものではない。それこそ、日本各地にある。京都人は残念ながら、祇園祭はコンチキチンの京都だけだと思い込んでいる。


 正直、京都優越主義には、神戸出身の私は若いときから反感をもっていた。


 
神戸にも平野の祇園さんが、れっきとして大きな存在を誇っているのである。平野という地名の区域は、京都の祇園区域よりも広い。


 
つまらないことを張り合う積もりはない。しかし、日本各地に同じような神社が、それぞれの地域の特性に応じた由来をもって存在していることに想いを馳せるべきである。これほど、日本神道の魅力を物語るものはない。


 日本の宗教は、土着の神道(これも土着であると断言はできない。外来のものである可能性も非常に高い)、明らかに外来の仏教、そして、日本人の教養を形成してきた漢籍に豊富に盛り込まれた道家、の思想と風習とが渾然一体となって習合したものである。