消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 66 本地垂迹の転換

2007-02-06 23:59:56 | 神(福井日記)
 本来の神なり仏なりが、別の仏や神に姿を変えているということを本地垂迹という。

 仏教が伝来した時の日本では、仏を「他国神」とか「蕃神」(あたしくにのかみ)と呼んでいたと、末木氏の本には紹介されているが、仏を他所からきた神として、積極的にそうした「客人神」(まれびとがみ)として、日本に幸せをもたらすものと理解する崇仏派の蘇我氏と、厄災をもたらすものと嫌悪した排仏派の物部氏が争ったのであろう。

 この頃は、神が仏の姿をとっているという意味での本地垂迹であった。
 仏教側から見れば、これと反対のことが本地垂迹である。仏が日本では神の姿をとっているというのである。本が神から仏に移行することは立場の差であって当然の事情ではある。しかし、本地が人間になると宗教は革命的な変化を遂げたことになる。

 熊野伝説は人が本地の典型例である。登場人物は4人いる。そのすべてが熊野では仏になった。登場人物はすべてインド人である。

 
4人の1人目は、善財王(ぜんざいおう)という大王、2人目が大王の千人目の后で「五衰殿」(ごすいでん)に住んでいた「せんかう女御(にょうご)」、3人目が女御が生んだ王子を助け出した「地けん聖(ひじり)」、最後の4人目が王子である。熊野権現(ごんげん)の証誠殿(しょうじょうでん)の阿弥陀如来は大王である。


 両所権現は観音であり女御のことである。
 
那智権現は薬師如来で「地けん聖」である。若王子(にゃくおうじ)は十一面観音で王子である。インドから逃れてきた大王は殺された女御の首を本尊として仏道に励んだとされている。

 物語はこうである。
 大国を治めていた大王は999人の后をもったが子供ができなかった。そこで1000人目の后が懐妊した。嫉妬した999人の后たちは、1000人目の女御を山中の岩屋に幽閉し、武士たちに命じて首をはねさせた。首をはねられるときに、女御から王子が生まれた。首を切られて死んだ女御は乳を出し続けた。王子は虎や狼に守られて成長していた。この王子を「地けん聖」が見つけ、大王の元に連れてきた。ことの次第を知った大王は世をはかなみ、王子を連れ、女御の首を抱いて、飛ぶ車にのって日本の熊野にやってきた。

 首を切られても乳を出し続けて子供を育てた偉大な母性、后の苦難を知って仏性に目覚めた大王、彼らが仏の力を借りて神となる。人が神になったのである。確かに、後の熊野三山の本宮という「熊野坐神社」にいる神が阿弥陀、新宮という「熊野速玉神社」にいる神が薬師、那智という「熊野夫須美神社」にいる神が観音を本地とする。しかし、そもそもがインドの人間が日本の神になったというのが原型でである。
 こうした物語は中世の日本でよく語られていた。これを「本地物」(ほんじもの)という。森鴎外の『山椒大夫』もその一つである。


 末木氏によれば、本地垂迹は大転換を遂げた。
 
まず、インドの王様のような大権力者が日本で神になった。つぎに菅原道真のような怨霊が神になった。そして、「さんせう太夫」のような凡夫が神(ここでは仏)になった。これは、安寿と厨子王を助ける金焼(かねやき)地蔵が、じつは実父を本地とするものであるという垂迹である。このような転換を経ると、人を本地とする神は、厄災をもたらすものではなく、恩恵をもたらすものとなった。神も仏も人間も同一のレベルに並べるという、世界で稀な精神風土が日本に生み出されたのである。日本の神道の隆盛はこうした宗教界における大転換を契機としたのではないだろうか。

 日本の神社の多くは寺院(神宮寺)を併設していた。
 
霊亀(715~717年)の頃、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が神託によって気比(けひ)神宮に神宮寺を建てたという『藤原家伝』がある。神が藤原武智麻呂の夢枕に現れ、自分は仏教に帰依したいので、この神社に寺を建ててくれと懇願したという。

 養老年中(717~724年)には若狭比古(ひこ)神宮寺が建てられている。これも、神が仏法に帰依したいのに寺がないばかりにその恨みで厄災を与えたというので、寺を建てたという。

 つまり、この段階では、神は迷える存在であり、仏の救済を必要とするとされていた。日本の神々は外来の仏の膝下に入っていた。

 
こうした神道にとっての屈辱を跳ね返すには、民衆に愛され、民衆に世俗的利益をもたらすように神の役割をより具体化させなければならなかったのである。その際、人を本地とするようになった本地垂迹の大転換は、神道にとって最大のチャンスであっただろう。

本山美彦 福井日記 65 金融のパラダイム

2007-02-05 23:26:09 | 金融の倫理(福井日記)
 短期間に稼ぎだすことを信条とする金融は、本来的に倫理を備えているものだろうか。倫理にこだわれば、儲ける機会を逃す。儲けようとすれば、倫理は邪魔になる。これが金融に従事する人たちの正直な感情であろう。

 Dobson, John,  Finance Ethics: the rationality of vietue(金融の倫理:道徳の合理性), Rowman & Littlefield, 1997(ISBN 0-8476-8401-6(cloth); 0-8402-4(paper)という本がある。この本にはH.Alordの書評がある(http://www.oikonomia.it/pages/genn/recensione.htm)。

 Alordは、書評の中で、カトリック世界で取り組まれるようになった「金融倫理」の理論化の試みを紹介している。

 経済における倫理といっても様々なものがある。企業論理、職業倫理、いずれも、社会の信頼を得るために不可欠なものとして当事者たちには十分理解されている。しかし、金融の倫理については、建前的にはその重要性を語りはするが、本音のところで、避けて通りたいものとして考えられてきた。つまり、金融の倫理については、その他のビジネスの倫理に比べて著しく理論化が遅れていると、Alordはいう。

 金融を扱う人たちは倫理にこだわってこなかったし、倫理を強調する人たちは金融知識に乏しいというのが実情であるというのである。

 Alordによれば、こうした中にあって、フランスにおけるカトリックの世界で、「金融の倫理」という観念の開発が叫ばれるようになった。1994年にフランス大蔵省の2人の官僚によって、『近代金融システムとクリスチャンの倫理規範』(フランス語)が出された。これは、「正義と平和を求める司教会議」における金融行政担当者たちの一連の議論をまとめたものであった。この本に刺激されて、ジュネーブにはカトリックの立場から行う「金融監視センター」が設立された。
 
 『金融と共通利益』(Finance and the Common Good)という雑誌の発刊も企てられている(英語とフランス語)。

 こうしたカトリック側の理論は、利己心と富の最大化を前提にして組み立てられた金融論を、金融システムで現実に起こっている事象をきちんと説明できないものであるとする点に立脚したものである。

 ビジネス・スクールで教えられているような原理主義的金融論のもつイデオロギーは、金融当事者を引き裂き、金融システムの健全な機能を損なってしまうと、カトリック世界では論じられるようになった。単なる技術論ではなく、倫理を土台とする金融論を構築しないかぎり、金融システムはちゃんと機能しなくなるというのである。

 さて、Dobsonは、金融の倫理を求めることは、金融の世界で生きる人々に対する制約ではなくて、全員が幸せになるための条件であると強調する。Dobsonが依拠するキーワードは「道徳的倫理」(virtue ethics)である。

 この言葉で彼は、カント(Kant)の「至上命令、良心の絶対無条件的道徳律」(categorical imperative)を超えようと試みている。

 
面白いことに、こういう論点を提出するDobson自身が、米国の有数のビジネス・スクール、
カリフォルニア工科大学(Caltech)スクールの金融論担当教授である。

 彼は、クーンのパラダイム転換論(Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions)をもじって、「金融パラダイム」という言葉を使っている。

 エッジワースは、「道徳科学への数学の応用」(Edgeworth, F. Y., "Essay on the Appliation of Mathematics to the Moral Sciences", 1881)の中で、「すべての主体が利己心のみで行動させられているという点が経済学の第一原理である」と断定した。この第一原理がさらに彫琢されて金融経済論にも使われていると、Dobsonはいう。利己心は、ますます狭く解釈され、人々は少額よりもより多額の報酬を求め、ときには詐欺、欺瞞という手段すら必要悪であると見なすようになってしまった。経済活動の動機を、もっぱら、狭い利己心のみに求める立場は、その他の豊かな動機を理論から放逐してしまった。こうした理解方式を彼は、「金融のパラダイム」という(p.1)。

  このパラダイムがあまりにも強力すぎて、それに反対する考え方はこれまではきっぱりと退けられてきた。すでに現実に破綻しているにもかかわらず、このパラダイムは、なお強力に生き続けていると、彼はいう。

 このパラダイムに固執するかぎり、市場の参加者たちは、相手から騙されるかも知れないという恐怖感に駆られて、短期即効的な高金利を貸し手は要求する。いきおい、借り手は十分な投資ができなくなる。Norman Bowieというビジネス道徳家がいた。

 Dobsonは、彼の、「すべての社会構成員が利己心のみで行動してしまえば、結果的にはすべての人々の利益を損なってしまう」という言葉を引用している。

本山美彦 福井日記 64 33回忌

2007-02-04 15:54:18 | 神(福井日記)
 日本の葬式が10回の法要ではなく、13回となったことはすでに紹介した。なぜ、33回忌が付け加えられたのかが、柳田国男(1875~1962年)の『先祖の話』(筑摩書房、1946年)で解明されている。



 死者の魂が、初期の荒れ狂う状態から温和しくなり、子孫を見守るように成熟するのは、死後33年経過してからであるという日本人独特の死生観から33回忌はきているとうのが、柳田説である

 古代の日本人は、「魂」を「タマ」と呼んでいたらしい。そのタマが身体から離脱することが死の意味であった。

 身体から離脱した直後のタマは、荒々しく人に危害を加えるものであると理解されていた。そうしたタマを「アラタマ」という。

 当時の日本人にとって、死は最大の「ケガレ」であった。「ミソギ」や「ハラエ」によって荒ぶるタマを鎮めようと試みていたが、それでも不安な気持ちに遺族は駆られていた。

 したがって、古代の墓は両墓制(後述する)に見られるように、人々の日常的生活圏から遠く離れたところに死者を埋葬し、人々の生活圏内にアラタマを近づけないようにしていた。

 死者供養とは、荒ぶる魂を鎮める目的があった。時間の経過とともに、アラタマはかなり温和しくなり、人に危害を加えることもなくなる。これを「ニギタマ」という。

 このニギタマも、歳月の経過とともに、個性をなくして祖先の霊と同化する。これが「カミ」(祖先神)である。アラタマがカミになるのに、33年かかるとされたのである。

 見られるように、「数値」が人の心に重要な影響を及ぼしていた。私が、ピタゴラスにこだわるのも数値のもつ呪術性をピタゴラスは認識していたからである。

 日本でも、たとえば、聖徳太子(呼称問題があることは百も承知、民衆が太子を尊敬している事実を軽視してはならない)が17条の憲法を作成したのも、たんに17条の取り決めがあったからではない。17という数値に神秘性を感じていたからである。それは陰陽思想からきたものである。

 8という偶数と9という奇数の合体が呪力をもつと信じられていたからである。33年というのは、死者のことを忘れ去るに十分な期間である。

 カミ(祖先神)は人里から離れた山に住んでいて、子孫を遠くから見守っている。ときどき、山から降りてきて子孫の家を訪れる。

 旧暦の1月と7月が、カミが訪問してくれるもっとも重要な月とされた。1月はこれから農耕にかかる前の段階、7月は収穫前の段階である。古代日本人は播種と収穫の2つによって1年を二分していた。播種に備える正月が1月、収穫に備える7月が盆である。

 柳田は日本の風習を説明するのに、仏教的なものを排除しようとしてきた。
 たとえば、盆は仏教の盂蘭盆の盆ではなく、カミに収穫した食べ物を捧げるための素焼きの食器である「瓮」(フォントがないので表示できないが、ボンと呼び、冠が公ではなく、分)のことであると解釈したり、死者を「ホトケ」と呼ぶのも、「仏」からきたのではなく、同じく食物を入れる食器「ホトキ」のことを指すとも説明している。

 真偽を確証することは私には不可能であるが、古代人の生活感覚に基づく死生観を再発見しようとする柳田の努力には価値を認めるべきである。

 考えて見れば、本当の仏教では、そう簡単に仏(成仏)などできるものではない。なんの修行もしなかった人が、死んだ途端に「ホトケ」と呼ばれるのもおかしなことである。ここで、いくら正確に仏教の教えから説明しようとしても、それは空しいことであろう。

 仏教の経典を引用してどう説明を受けようが、民衆にとって、「死ぬこと」は「ホトケになること」なのである。なぜ、そうなったのかをテキストではなく、生活に根ざす日用語から説明しようとした柳田の方向性は高く評価できる。

 末木氏が、仏教が葬式仏教として位置づけられるようになったのは、仏教が、日本人にはそれほど馴染みのなかった死後の世界を、「六道輪廻」や「極楽往生」のような構図をもってきて、圧倒的な力で民衆の心を掴んだからであるという。

 ケガレやハラエだけではこころもとかった日本人の信頼を仏教が勝ち取ったのである。阿弥陀仏の力を借りてアラタマをやすらぎの魂に変えて行くこと、こうした呪術的なものに、日本人は心を奪われたのである。

 こういう私も、両彼岸には必ず先祖の墓参りをする。
 
私の子供たちも、いまはしてくれないが、私が死んだ後は同じようにしてくれるであろう。こうした風習がそれこそ千年以上も続いている。そうした持続的な風習の力強さに比べれば、「理論」など短命で、はなかいものであることに、私たちは気付くべきである。

 以下は、ウィキペディアによる説明である。そのまま転載させていただく。最近のウィキペディアは英文も含めて内容が充実してきた。しかも、やかましく著作権を云々しない。庶民が接近できるいい辞書である。

 「墓(はか)は、死者の遺体(遺骨)を葬り、故人を弔う場所。一般に墓石・墓碑などを置く。またこの墓石・墓碑のことを墓ということもある。

 王などの有力者は巨大な墓を築くことも多く、それらは単に死者を祀る場ではなく、故人の為した業績を後世に伝えるモニュメントとしての性格も帯びる。王や皇帝の墓は法令または慣習により、陵と呼ぶ。また、古代日本では墓を「奥都城、奥津城(おくつき)」と呼んでおり、これにならって、神道墓をそう呼ぶ。

 なお、墳墓は「築く」といい、その他の墓や塔は「建てる」という。建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、殆どが「建之」の字を当てる。

 又、「墓場」という語は、墓地(埋葬される場所)と刑場(殺害される場所)の2種類の意味があり、文脈で意味する所が異なる。例えば、特撮などで見られる「ここが貴様の墓場だ」との台詞では、墓場は「刑場」を意味する。

 また、日本でも沖縄では、亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか)や破風墓(はふばか、家型の墓)など一風変わった墓も見られる。亀甲墓の形状について、「人は死んだらまた母親の胎内に戻っていくという趣旨で、その胎内をかたどったもの」という説明は俗説である。



 世界最大の墓は、面積では日本の仁徳天皇陵(大仙陵古墳、大阪府堺市)である。

 墓を設けるのは人類共通の習慣ではなく、これを用いない民族・文化も多い。インドやインドネシア・バリ島のヒンドゥー教においては、遺体を火葬した後に遺灰と遺骨を川もしくは海に流し、またはガンジス川に遺体そのものを流して水葬にし、墓を設けない。また墓を設けることと、それに継続的に参拝することはイコールではない。日本でも、ヒンドゥー教のように遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方も最近では認められつつある。キリスト教徒もかつては教会内部に死者を納め最後の審判の後に復活することを待った。

 日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。



 しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を①遺体の処理形態(遺体か遺骨か)、②処理方法(埋葬か非埋葬か)、③二次的装置(石塔の建立、非建立)の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔が出来てきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。

 なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する。)

 戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。

 人によっては生前に自らの墓を購入することもある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。

 現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。詳しくは土葬を参照。
 現代における墓地(ぼち)は、墳墓(ふんぼ)を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域をいう。なお、「墳墓」とは、死体を埋葬し、又は焼骨を埋葬する施設である(墓地、埋葬等に関する法律第2条)。なお、墓地についてその他地方税法などで優遇されているものもある

 墓地は、公衆衛生上その他公共の福祉の見地からいろいろな行政上の規制を受ける。

 墓地の経営には、都道府県知事の許可が必要である。
 墓地の経営者は管理者を置き、管理者の本籍、住所、氏名を墓地所在地の市町村長に届け出なければならない。

 墓地の管理者は、埋葬等を求められたときは、正当な理由がなければ拒否できない。
 都道府県知事は、必要があると認められるときは、墓地の管理者から必要な報告を求めることができる。
 などである。

 祭祀財産(墓所・仏壇・神棚など)については相続税について課税財産と扱わない(非課税)。純金の仏像など純然たる信仰の対象とは考えにくいものは課税財産となる。

 墓地に対する固定資産税は非課税。
 墓地に対する不敬行為等は刑法第188条、第189条により処罰される。(礼拝所及び墳墓に関する罪を参照)

 墳墓の所有権は、習慣に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継するものとして特例を設けている」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%93)。

本山美彦 福井日記 63 仏教的なものの砦

2007-02-03 12:46:30 | 神(福井日記)
 私がノートを取りながら勉強させていただいている末木(すえき)文美士(ふみひこ)『日本仏教史』(新潮文庫、平成8年、原著は平成4年新潮社))は本当に説得力のある本である。

 おそらくは、まだ若い人なのであろうが、同氏の文章はこなれている。なによりも分かりやすい。

 私は、このことをもっとも重視している。思想家は文章を分かりやすく書く義務がある。

 私はレトリック*を駆使し、やたらと難解な造語をする人たちを好きになれない。たんたんと書いて、「そうだな」との情感をもたらしてくれる文を、私は、達意のものだと思う。

*(1)修辞法。修辞学。(2)修辞。美辞。巧言。(1)ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術。 (2)ことばを飾り立てること。また、ことばの上だけでいうこと。


 末木氏は、若いのにその域にに達している。たとえば、次のような文章に出会う。少し長くなるがそのまま引用しよう。

 「葬式仏教は、真面目(まじめ)な仏教者によってあたかも日本の仏教の恥部のように語られ、あるいは隠蔽(いんぺい)される。少し弁の立つ論者であれば、それは仏教の難解な真理がわからない無知な民衆に対する方便だと論じる。だが、そのような論者がそれほど知恵があるのか、民衆はそれほど無知なのか、どうも疑問に思われる。葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。・・・それ(人間の生死の問題)に頬(ほお)かむりして高尚(こうしょう)な理屈を弄(もてあそ)ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、私には思われない」。

 素晴らしい文章である。同氏の叙述に対して、「仏教が分かっていない」との侮蔑の言葉を吐くのは簡単である。

 でも、民衆の生死の恐れから、心の中に入る込む神道と仏教の棲み分けや相乗りの問題領域を、浮き彫りにさせた氏の志やよし。そもそも、数千年生きてきた仏教の全体像を形ある文で表現することなど不可能である。

 私たちは、自分の「生きていたい」という意思に基づいて、「存在するであろう」「全体」の一部を切り取って、納得するものである。それでいいではないか。

 私が、なぜ、宗教をかじりだしたかの回答もここにある。
 現在の日本は、畳の上に土足で入ることを強制されているような状況にある。畳が靴には合わないから、板敷きにしろと強制されているようなものである。

 おそらく、そうはならないであろう。私たちは、畳を残すであろう。玄関で靴を脱ぐであろう。そうした、日常の生活感覚に入る込むものこそ、宗教である。

 そして、あらゆる宗教が異国の地に入るとき、土着の生活感覚に合わすべく、自らを変えてきた。その様を追うことから、ノッペラボウなグローバル的単細胞から脱却できる。

 言葉で口角泡を飛ばす議論をする必要のない感覚を同一にするところから人の「共感」は生まれる。現在の忌まわしいグロ-バリズムへの民衆の反感と行動は、必ず土着思想を土台とすることになるであろう。

 こうした思い込みから私は、私たちの心の奥底に横たわっているであろう土着的なものを寝覚めさそうとしているのである。

 そうした作業において、もっとも有害なことは、「先行研究の成果を正しく理解していない」といった類のテキスト・ファンダメンタリズムである。

 あえて断定する。
 「仏教的なもの」(神道的なものと言い換えてもよい)の再発見からしか、米国の属国状態からの脱却はできない。米国がキリスト教人脈を通じて世界を支配しているのなら、私たちは、「仏教的なもの」を踏み台とした反抗の砦を形成しうる人脈を新たに作ればよい。言葉は空しい。私は、こつこつとこの作業を継続する所存である。

本山美彦 福井日記 62 追善廻向

2007-02-02 23:27:53 | 神(福井日記)
 専門家にも素人のときがあった。それでいい。いま、私は末木氏の解説を下敷きにして、仏教の勉強をしている。これはそのノートにすぎない。次第に完全なものにして行く所存である。

 最終的には私は、社会構造を歴史的に理解する手段として宗教を使う学者になりたいと願っている。

 
学術論文でなければなにをも書いてはだめだという権威主義を私はずっと排してきた。もとより、間違いは素直に認める積もりである。なによりも先に鳥瞰図(*ちょうかんず)を描くこと、このことが学問上で最重要のことである。鳥瞰図を早期に得た後、じくり推敲を重ねるというのが、学問の方法である。誤ってもいいから、とにかく鳥瞰図を早く書いて見ることがどうしても必要である。

*高い所から見おろしたように描いた風景図または地図。鳥目絵(とりめえ)。



 我が師、小野一一郎先生が、ある時代を経済学で分析する前に、当時の大衆小説を読むように私に勧めてくださったことが、そうした考え方をするさいの、血肉になっている。

 
それを人の「考え方の鋳型」に応用しているのがいまの私であり、このブログの趣旨である。「消された思考の回路」、これを私は復権させようとしている。なにが正しいのかの判定は好事家にまかせておけばよい。私は、こぼれ落とされた者たちの思考を回復させようとしているのである。



 梶山雄一の著作に『「さとり」と「廻向」』(講談社現代新書、1983年)がある。廻向については、末木氏と梶山氏に依拠している。

 「追善廻向」(ついぜんえこう)となにげなく私たちは使っている。「廻向」は、善行を積んで、ある目的のために、そうした積んだ善を振り向けることを意味するという。その目的とは仏教の初期には自分の救済であったらしい。それが、大乗仏教の登場とともに、他人を救済することにも使われるようになった。死者は、死んでしまっているのだから、善行を積むことはできない。善行をなすことのできない死者に功徳を与えたい。そのために、死者に代わって善行を積んで(追善)、死者の功徳に応用してあげたい。これが、追善廻向である。

 インドの輪廻思想によれば、人は死んでしまった後、49日経つと別の生命に生まれ変わるという。
 
生まれ変わる前の、この49日間を「中陰」(ちゅういん)という。追善の法要がこの間に営まれるのは、生きている人間たちが、この死者に代わって善行を積み、その善行によって、死者が新しい生命を得るときに役立てようという趣旨から生まれたものである。

 この廻向は、中国で発展した。49日の間は7日ごとの法要、そして、100日法要、1周忌、3回忌となった。つまり、合計10回の法要がある。これを「10仏事」というらしい。面白いのは、日本ではこれに3回の法要を足した。7回忌、13回忌、33回忌がそれである。つまり、「13仏事」になったのである。

 それでは、「仏事」とはなにか。死者がきちんとしているかどうかを仏(王)が裁くことである。

 
死者は、初七日には「秦広王」(しんこうおう)の裁きを受けなければならない。そして、「初江王」(はっこうおう)、「宋帝王」(そうていおう)、「五官王」(ごかんおう)、「閻羅王」(えんらおう)、「変成王」(へんじょうおう)、「太山王」(たいざんおう)と続き、100日目には、「平等王」(びょうどうおう)、1周忌に「都市王」(としおう)、3回忌に「五道転輪王」(ごどうてんりんおう)の裁判がある。これは、閻魔王信仰の一つ、「十王信仰」である。インドのベーダでは、閻魔王は最初、死者の楽園の王として天界にいたのに、死者を裁く神に変化したとされている。

 日本では、この「王」が「菩薩」に代わり、13菩薩が死者を見るのである。
 「盂蘭盆会」(うらぼんえ)も中国発である。


 仏教用語に、「安居」(あんご)という言葉がある。
「ウィキペディア」によれば、「安居とは、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。及び、その期間の事を指す」として、以下のように説明している。


 「安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳したものである。本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事である。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
 釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視された。
 現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明け暮れる。
 日本書紀の成務天皇の項で、「百姓安居」という言葉が見られるが、これを指した物であるかどうかは定かではない。
 また、683年の天武天皇の項から、宮中で安居が行われたとの記録が複数見られる。その後、民間にも広まり、期間中は家事一切を行わない為、一部の地域では安居は「言う事を聞かない」と言う意味の方言としても使用される。この場合は「あんごさく」、「あんご」とも言うが、「安居」と記されているが当時から「あんご」と読んだのかは定かではない。万葉仮名風に読むと「あこ」または「あご」と読むことが出来る。但し、万葉仮名などを方言に用いる地方では、二文字目に濁音が入る場合、一文字目と二文字目の間に「ん」を入れることが多く地名などに見ることが出来る。この場合、「あご」は「あんご」と読む事となる」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85)。

  さて、中国では、この安居の期間が明けるのが、陰暦7月15日である(「自放」(じし)。 

 
『盂蘭盆経』という経典がある。



 
それによると、釈尊の高弟、目連(もくけんれん)(けんの正字は牛偏)が、自分の母親が餓鬼道に落ちていることを発見、釈迦に相談すれば、7月15日に僧衆を供養すればよいと言われ、そうしたら、母は救われたとされている。

 この7月15日を盂蘭盆という。盂蘭盆とは、これも、ウィキペディアによると、
 「盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。
 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」とも音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の義であるといわれ、これが倒懸(さかさにかかる)の意である。
 近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だとする説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば、可能性が高い説である(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86)。

 供養とは、文字通り、接待することである。僧衆とは僧のことである。
 日本で、なぜ、13の裁きに増えたのかは不明である。それに、彼岸会も中国にはなく、日本独自のものであるらしい。

 浄土宗の説明では、以下のようになっている。
 「彼岸は、春分と秋分を中日としてその前後三日間、菩提(ぼだい)の種を蒔(ま)く日といわれる計一週間にわたる期間をいいます。この習慣はわが国特有のものとされ、その起源は古く、一説では聖徳太子の頃といわれます。彼岸の中日には太陽が真東から出て、真西に沈む。太陽の真西に入る様子を見ながら、阿弥陀さまのまします西方浄土に想いを馳(は)せて、自分自身を反省するのにふさわしい日とされている。
 この「彼岸」とは、もともと生死流転(しょうしるてん)する此岸(しがん)から涅槃(ねはん)の彼岸に到る「到(とう)彼岸」のことで、到彼岸とは現実の世界(此の迷いの岸)から、理想の世界(彼のさとりの岸)へ渡ることで、古代インドの原語でパーラミター(波羅蜜多)といいます。この一週間は、中日の前後三日間に布施(ふせ)(めぐみ)・持戒(じかい)(いましめ)・忍辱(にんにく)(しのび)・精進(しょうじん)(はげみ)・禅定(ぜんじょう)(しずけさ)・智慧(ちえ)(さとり)という「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(六つの正しい行い)をあてはめて実践し、煩悩(ぼんのう)の川を渡り、極楽浄土へ生まれかわりたいと願う信仰実践の期間とされています。
 また浄土宗で高祖(こうそ)と仰がれる中国の善導大師(ぜんどうたいし)(七世紀・唐の人)は、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日には、「日想観(にっそうかん)」という行法(ぎょうほう)を行い、その日没の場所を極楽浄土と思ってあこがれの心を起こすべきである、ともお説きになっています。
 あらゆる自然の生命が若々しく萌(も)えあがる春彼岸の時期。自然をたたえ、生命をいつくしみ、南無阿弥陀仏を称えて、今日ある自分を育んでくれた数多くの祖先の追善供養など仏事につとめ、心から先祖のご恩に感謝いたしましょう。そして、わたしちたち自身の生活をもう一度反省したいものです」(
http://www.jodo.or.jp/naruhodo/event/index17.html)。