私がノートを取りながら勉強させていただいている末木(すえき)文美士(ふみひこ)『日本仏教史』(新潮文庫、平成8年、原著は平成4年新潮社))は本当に説得力のある本である。
おそらくは、まだ若い人なのであろうが、同氏の文章はこなれている。なによりも分かりやすい。
私は、このことをもっとも重視している。思想家は文章を分かりやすく書く義務がある。
私はレトリック*を駆使し、やたらと難解な造語をする人たちを好きになれない。たんたんと書いて、「そうだな」との情感をもたらしてくれる文を、私は、達意のものだと思う。
*(1)修辞法。修辞学。(2)修辞。美辞。巧言。(1)ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術。 (2)ことばを飾り立てること。また、ことばの上だけでいうこと。
末木氏は、若いのにその域にに達している。たとえば、次のような文章に出会う。少し長くなるがそのまま引用しよう。
「葬式仏教は、真面目(まじめ)な仏教者によってあたかも日本の仏教の恥部のように語られ、あるいは隠蔽(いんぺい)される。少し弁の立つ論者であれば、それは仏教の難解な真理がわからない無知な民衆に対する方便だと論じる。だが、そのような論者がそれほど知恵があるのか、民衆はそれほど無知なのか、どうも疑問に思われる。葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。・・・それ(人間の生死の問題)に頬(ほお)かむりして高尚(こうしょう)な理屈を弄(もてあそ)ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、私には思われない」。
素晴らしい文章である。同氏の叙述に対して、「仏教が分かっていない」との侮蔑の言葉を吐くのは簡単である。
でも、民衆の生死の恐れから、心の中に入る込む神道と仏教の棲み分けや相乗りの問題領域を、浮き彫りにさせた氏の志やよし。そもそも、数千年生きてきた仏教の全体像を形ある文で表現することなど不可能である。
私たちは、自分の「生きていたい」という意思に基づいて、「存在するであろう」「全体」の一部を切り取って、納得するものである。それでいいではないか。
私が、なぜ、宗教をかじりだしたかの回答もここにある。
現在の日本は、畳の上に土足で入ることを強制されているような状況にある。畳が靴には合わないから、板敷きにしろと強制されているようなものである。
おそらく、そうはならないであろう。私たちは、畳を残すであろう。玄関で靴を脱ぐであろう。そうした、日常の生活感覚に入る込むものこそ、宗教である。
そして、あらゆる宗教が異国の地に入るとき、土着の生活感覚に合わすべく、自らを変えてきた。その様を追うことから、ノッペラボウなグローバル的単細胞から脱却できる。
言葉で口角泡を飛ばす議論をする必要のない感覚を同一にするところから人の「共感」は生まれる。現在の忌まわしいグロ-バリズムへの民衆の反感と行動は、必ず土着思想を土台とすることになるであろう。
こうした思い込みから私は、私たちの心の奥底に横たわっているであろう土着的なものを寝覚めさそうとしているのである。
そうした作業において、もっとも有害なことは、「先行研究の成果を正しく理解していない」といった類のテキスト・ファンダメンタリズムである。
あえて断定する。
「仏教的なもの」(神道的なものと言い換えてもよい)の再発見からしか、米国の属国状態からの脱却はできない。米国がキリスト教人脈を通じて世界を支配しているのなら、私たちは、「仏教的なもの」を踏み台とした反抗の砦を形成しうる人脈を新たに作ればよい。言葉は空しい。私は、こつこつとこの作業を継続する所存である。
おそらくは、まだ若い人なのであろうが、同氏の文章はこなれている。なによりも分かりやすい。
私は、このことをもっとも重視している。思想家は文章を分かりやすく書く義務がある。
私はレトリック*を駆使し、やたらと難解な造語をする人たちを好きになれない。たんたんと書いて、「そうだな」との情感をもたらしてくれる文を、私は、達意のものだと思う。
*(1)修辞法。修辞学。(2)修辞。美辞。巧言。(1)ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術。 (2)ことばを飾り立てること。また、ことばの上だけでいうこと。
末木氏は、若いのにその域にに達している。たとえば、次のような文章に出会う。少し長くなるがそのまま引用しよう。
「葬式仏教は、真面目(まじめ)な仏教者によってあたかも日本の仏教の恥部のように語られ、あるいは隠蔽(いんぺい)される。少し弁の立つ論者であれば、それは仏教の難解な真理がわからない無知な民衆に対する方便だと論じる。だが、そのような論者がそれほど知恵があるのか、民衆はそれほど無知なのか、どうも疑問に思われる。葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。・・・それ(人間の生死の問題)に頬(ほお)かむりして高尚(こうしょう)な理屈を弄(もてあそ)ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、私には思われない」。
素晴らしい文章である。同氏の叙述に対して、「仏教が分かっていない」との侮蔑の言葉を吐くのは簡単である。
でも、民衆の生死の恐れから、心の中に入る込む神道と仏教の棲み分けや相乗りの問題領域を、浮き彫りにさせた氏の志やよし。そもそも、数千年生きてきた仏教の全体像を形ある文で表現することなど不可能である。
私たちは、自分の「生きていたい」という意思に基づいて、「存在するであろう」「全体」の一部を切り取って、納得するものである。それでいいではないか。
私が、なぜ、宗教をかじりだしたかの回答もここにある。
現在の日本は、畳の上に土足で入ることを強制されているような状況にある。畳が靴には合わないから、板敷きにしろと強制されているようなものである。
おそらく、そうはならないであろう。私たちは、畳を残すであろう。玄関で靴を脱ぐであろう。そうした、日常の生活感覚に入る込むものこそ、宗教である。
そして、あらゆる宗教が異国の地に入るとき、土着の生活感覚に合わすべく、自らを変えてきた。その様を追うことから、ノッペラボウなグローバル的単細胞から脱却できる。
言葉で口角泡を飛ばす議論をする必要のない感覚を同一にするところから人の「共感」は生まれる。現在の忌まわしいグロ-バリズムへの民衆の反感と行動は、必ず土着思想を土台とすることになるであろう。
こうした思い込みから私は、私たちの心の奥底に横たわっているであろう土着的なものを寝覚めさそうとしているのである。
そうした作業において、もっとも有害なことは、「先行研究の成果を正しく理解していない」といった類のテキスト・ファンダメンタリズムである。
あえて断定する。
「仏教的なもの」(神道的なものと言い換えてもよい)の再発見からしか、米国の属国状態からの脱却はできない。米国がキリスト教人脈を通じて世界を支配しているのなら、私たちは、「仏教的なもの」を踏み台とした反抗の砦を形成しうる人脈を新たに作ればよい。言葉は空しい。私は、こつこつとこの作業を継続する所存である。