消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(445) 韓国併合100年(84) 日本のキリスト教団(7)

2012-10-02 22:45:53 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(7) ジョン・ウィンスロップは、ピューリタンの牧師であり、裕福な土地所有者でもあった。マサチューセッツ湾会社の最高経営責任者が、植民地の知事や総督を兼ねていたのである。当然、経営責任者の彼が、植民地マサチューセッツ湾岸州の初代総督に選ばれたのを含め、以後も総督に一二回選出された。一六三〇年、ウィンスロップは新大陸上陸前のアルベラ(Arbela)号上で「キリスト教の慈愛のモデル」("A Model of Christian Charity"と題する説教を行った。その中で、「我々の目的は、神に対しいっそうの奉仕をし、キリストによる恵みと繁栄が与えられ、キリストによる救いを全うするという神との間の盟約に基づいて、神聖なる共同体を建設することである」と彼は述べた。<自分たちは、英国と袂を分かつのではなく、新天地で本国の手本となるような理想的な教会組織を建設しよう>、<腐敗に満ちた英国社会を贖い、改革し、どちらの地においても、よき英国の復興をかなえよう>。<これから築く新しい共同体は>、「世界中の目が注がれる丘の上の町である」(for we must consider that we shall be as a city upon a hill, the eyes of all people are upon us.)。

 ニュー・イングランドはそうした意味である。ただし、気になる個所も演説にある。
 「一〇〇〇人の敵に、一〇名程度の同志で抵抗でき、我々に祈りと栄光を下さる時、ニューイングランドの植民地のような植民地を次々と建設できるようにする時、我々はイスラエルの神とともにあることを知ることになるだろう」(we shall find that the god of Israel is among us, when tens of us shall be able to resist a thousand of our enemies, when he shall make us a prayer and glory, that men shall say of succeeding plantations: the lord makes it like that of New England:)。

 「丘の上の町」とは、新約聖書の「マタイによる福音書」に記されたイエス・キリストの言葉にある。「あなた方は世の光である。丘の上にある町は隠れることができない」(「マタイによる福音書」第五章第一四節(You are the light of the world. A city on a hill cannot be hidden; Matthew 5:14)。「灯火を点して枡(ます)の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」。

 一九六一年一月九日、大統領選挙で勝利したジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy, 1917~63)は、就任前の演説で、一六三〇年のアベリア号のエピソードに触れた。一九八九年一月、ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911~2004)は、「輝く町」(the shining city)をピルグリムの植民になぞらえて語った。

 そして、二〇一一年一月二五一日、オバマ(Barack Hussein Obama, Jr., 1961~)は、大統領の一般教書演説の中で、「輝ける丘の上の町」の代わりに、「世界の光」“Light to the World”という言葉を用いた(http://ocean-love.seesaa.net/index-2.html)。

(8) 一六九二年一月、一〇〇戸ほどの小さなセイラム村で、一〇~二〇歳の少女数人が、床をのたうちまわり悲鳴を挙げた。村人は、これを魔女のせいにした。少女たちの証言で、犯人とされたのが、黒人の家政婦であった。彼女は、裁判の中で、「他にも悪魔と契約した人間がいる」と「自白」したために、村はパニックに陥った(小山[一九九一]、参照)。

(9) ハーバード大学校門には、「学問を進め、これを子々孫々に不朽に残し、将来教会が無学の牧師に任せられるようなことがあってはならない」(一六四三年の文書)の文章が刻まれている。ジョン・ハーバードは、最初の寄付者であった。一六三六年でのマサチューセッツ湾入植地の代表者会議で、大学(カレッジ)新設のための資金募集が決められた。翌年の三七年に当時の地名、「ニュー・タウン(New Town)に開設することが同じ会議で議決された。三八年にジョン・ハーバードは死去している。彼は遺言で、新設されるカレッジに寄附をした。その翌年の三九年、カレッジは彼にちなんで「ハーバード・カレッジ」(Harvard College)と名付けられた。

 三八年には、「ニュー・タウン」が「ケンブリッジ」(Cambridge)に改称された。英国のケンブリッジ大学から取った名称である。これは、「ハーバード・カレッジ」の初代学長・ヘンリー・ダンスター(Henry Dunster)、そして、ジョン・ハーバード、初代校長(Schoolmaster)・ナサニエル・イートン(Nathaniel Eaton)、初代のマサチューセッツ湾入植地総督・ジョン・ウィンスロップが、ケンブリッジ大学出身であったからである。「カレッジ」でなく、「ユニバーシティ」になったのは、一七八〇年の「マサチューセッツ州憲法」が制定されてからである(http://www.harvard.edu/)。

(10) リチャード・マザーは、国教会の祭式の作法に従わなかったという理由で、一六三三年八~一一月に司祭補佐の職を停止され、さらに、国教会では、「カンタベリー大主教」(Archbishop of Canterbury)の次席の地位にある「ヨーク大司教」(Archbishop of York)であったリチャード・ネイル(Richard Neile、在職、1631~40)の使節団の調査を受け、聖職者としての在職一五年間で一度も白衣(surplice)を着用しなかったとして、一六三四年に再度、停職処分を受けた。彼は、反省をするよりも、「七人の暗黒の悪魔(Seven Bastards)に加えてもらう方がよい」とまで言い切った(http://matherproject.org/node/49)。

(11) 時代や地域によって異なるが、一般的には、会衆派の教会では、説教者としての「牧師」(minister, pastor, preacher)、宣教の純正維持を図る「神学教師」(teacher)、信徒の訓練に携わる長老(elder)、慈善事業に携わる執事(steward, deacon)の四種の奉仕者から成っている(児玉[一九九二]、一四一ページ)。


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