ソクラレスの哲学が語られる時、必ず、引用される「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)は、デルフォイ神殿に入る人間に対して、アポロンが言う神託である。このデルフォイ神殿の入り口にはEという文字が刻まれている。エイと読めばいいのか、今風にエプシロンと読めばいいのかは分からないが、いまだにこのEの文字の意味が確定されていない。ピタゴラス学派は、数学好きなだけあって、「5」という意味であると主張した。古典ギリシャの5賢人は、キロン、タレス、ソロン、ピアス、ピッタコスであった。その仲間に独裁者クレオブロスとペリアンドロスが加えろと要求してきたことに対して、5賢人側がこの文字を示して拒否したからであると、プルタルコスの兄ランプリアスがプルタルコス説明した。その他、5大陸のことであるとか、アリストテレス的な5元素ではないかとか、いろいろと解釈されてきたと、プルタルコスがその『対比列伝』で紹介している。
プルタルコス自身は、その第17節の終わりの方で、「あなたは、ある」と訪れた人間がアポロン神に対して言い掛ける言葉であると解釈している。ギリシャ語では、「ある」とは、時間を超越して存在し続ける状態を指すと言われている。「ある」(有)とは、オンと発音される。有限な人間ではなく、神は永遠の存在(オン)である。したがって、アポロン神の名前には「オン」がつくのである。つまり、人間が、アポロン神に対して、「永遠の存在たる神様」と呼びかけているのである。それとEとはどうつながるのかは釈然としないが、それこそ永遠の謎である。
それはさておき、古代ギリシャでは公的な行事はもとより、私的な家庭の決断をする時には、必ず伝統的な宗教のまつりごとが執り行われた。個人も、共同体も神事で決定されていた。教義とされるものはなかった。そこには儀礼と神話だけが横たわっていた(フィンレイ、M.I.『民主主義―古代と現代』(刀水書房、1985年)。
アテネ民主主義の中心は「民会」であった。清めの犠牲に豚を捧げ、香を焚いた。神への祈りによって会は始められた。500名の評議員はゼウス感謝しながら、やっと世俗の議事に入ったのである。
リアリストのクセノポンですら、いっさいは神のみが知る。神が徴を与えるといってはばからなかったのである。
アテネでは、「涜神行為」は犯罪であり、ポリス国家当局によって裁かれた。ソクラテスの名を永久化させた刑死も、当局がソクラテスに涜神を読み取ったからである。プラトンのイデアは、堕落した衆愚政治を憎悪し、師ソクラテスを言論の自由人としてプラトンが尊敬していたことによって、生み出されたものであることは間違いない。
クセノポンは、青年時代にソクラテスに出会い、その弟子になったが、プラトンとクセノポンは反目しあっていたという。クセノフォンは行動派の人であった。『アナバシス』で語られているように、1万人の傭兵を率いる大将でもあった。小アジアでペルシャ王家に対して反乱を起こしたキュロスを支援したが、破れ、命からがら帰還した。が、アテネでは死罪を申し渡された(前399年)。一度は許されるが、スパルタ将軍と行動を共に、アテネから追放された。
プラトン同様、ソクラレスの悲劇が彼の全生涯を彩ったが、行動の人であった。27年間続いたペロポネソス戦争、戦後の10余年、30人寡頭政治の堕落、続く内戦、こうしたギリシャ世界の混乱が彼を地中海世界への戦闘に彼を駆り立てたのであろう。
ペルシャに反乱を起こしたキュロスを支援するために、行動を共にしてよいかどうかを、師ソクラテス相談したところ、ソクラテスはデルフォイ神殿のお告げに従えと言っただけであった。
私が、ソクラテスやプラトンの賢人政治指向を批判するのは、眼前の衆愚政治への反発から無媒介に賢人政治の推奨へと論理を運んでしまう彼らの手法に対してである。せめて、ペロポネソス戦争を記録しようとしたアテネ人ツキディデスの『歴史』、そしてクセノポンのような同時代史の事実分析から、混迷からの脱出方法をプラトンが提示してくれていたらと思う。
クセノポンは、ペルシャから脱出の後、スパルタのアゲシラス王ときわめて親密な関係をもつようになった。これでアテネから追放されたのであるが、自身の作品、『アゲシラオス』で感じられるように、衰退期に向かうアテネには見られない剛胆で人心を掌握している英雄としてクセノポンの目にアゲシオスが映じたのであろう。
クセノポン『ギリシャ史』は、ツキディデスが中断したところから書き始められている。このリアリズムが、後のアダム・スミスを魅了する社会学を生み出したのである。