消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(28) 新しい金融秩序への期待(28) ついに買い手がいなくなった米国債(4)

2008-12-13 23:51:27 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)

買い手がいなくなった米国債―米国発金融恐慌の行き着く先(4)


 三 一九九九年金融近代化法の付け


 AIGの経営危機が、米国流闇金融(shadow financial system)(ポール・クルーグマンによる命名、後述)に歴史からの退場を命じた。一九九九年から解禁になった、銀行、証券、保険業務の兼営が、AIGの命取りとなていたのである。一九九九年に成立した金融近代化法が、それまでグラス・スティーガル法(17)で禁じられていた三つの業務の兼営を解禁したのである。その解禁をフルに利用してきたのが、AIGであった。そのAIGが兼営に傾斜して一〇年足らずで経営危機に陥ったのである。

 金融近代化法は、法案審議を主導した各委員長の名前を取って、「グラム・リーチ・ブライリー法」(GLBA=Gramm-Leach-Bliley Act)として知られている。この法律によって、戦後体制は一挙に大恐慌以前の体制に戻された。銀行、保険、証券を分離するという、恐慌を経験した後の「グラス・スティーガル法」(一九三三年銀行法、Glass-Steagall Act)による金融業務を分けていた垣根が撤廃され、これら金融機関の相互提携・相互参入が可能になったからである。

 金融に関するあらゆる業務が、金融持株会社を創設することで、一つの母体で運営されることが可能になった。六六年間続いてきた米国の金融制度がこの法律によって大転換した。以降、米国のみならず、世界中で、金融コングロマリットが誕生することになった。

 米国発の金融の自由化とは、グラス・スティーガル法を撤廃する動き以外のなにものでもなかった。大恐慌の教訓は、大胆にも踏みにじられてしまった。

  こうした厳しい金融規制が、一九八〇年から次第に緩和され、ついに、一九九九年、規制のすべてが撤廃されてしまったのである。

 「一九八〇年預金金融機関規制緩和・通貨統制法](Depository Institutions Deregulation and Monetary Control Act of 1980)で、レギュレーションQの、六年以内での段階的廃止を決めた。

 「一九九四年リーグル・ニール州際銀行支店設置効率法」(Riegle-Neal Interstate Banking and Branching Efficiency Act of 1994)で銀行の地理的業務規制がなくなった。そして、業務規制を定めていた「グラス・スティーガル法第20条」が、一九八七年以降、相次いで修正され、金融機関の業務範囲も大幅に拡大させられた。

  そして、ついに、一九九九年の「グラム・リーチ・ブライリー法」によって、巨大金融コングロマリット形成の道が掃き清められたのである。その目玉は、銀行持株会社に加え、保険会社と証券会社を子会社にする金融持株会社(financial holding company)の認可である。

 グラス・スティーガル法が廃止されて行く経緯を見ると、規制の網をくぐり抜ける新金融商品が市場を掴み、それに引きずられて、その事実に合わすべく法が変えられてきた、ということが分かる

 金利規制については、一九七〇年代に登場した金利規制外のCP(コマーシャル・ペーパー=企業が短期資金を市場から調達するために発行する無担保の約束手形)やMMMF(市場金利連動型投資信託)(18)等の証券新商品に向かって、金利規制のある預金金融機関から資金が流出したことによって、法に風穴が空けられた。つまり、証券化の進行が銀行規制を破壊したのである。証券に対抗して、銀行は、一九七八年にMMC(市場金利連動型定期預金で、金利は、六か月物財務省証券(TB)に連動する)の発行が認可された。

 地理的業務制限の緩和は、州銀行法が独自に規制緩和してしまえば、連邦法もそれに併せて変えられてしまうという、米国独特の構図から生じたものである。つまり、州間の銀行獲得競争の結果である。これには、「一九七七年地域再生法」(Community Reinvestment Act of 1977=CRA)の成立が大きく影響していた。

  CRAは、一九七〇年代、米国で吹き荒れた市民運動、公民権運動、消費者運動が、勝ち取った法律である。それは、地域の経済発展や地域に居住する低・中所得者層への与信といった融資の地元還元を預金金融機関に対して奨励した法律である。十分な資本に裏付けられ、適切に運営されている銀行が、他州の銀行を取得して、それを支店とすることが、一九九四年の上記の法律で認められるようになったが、それでも、認可条件にCRAの検査を受けることが義務づけられていたのである。また、預金量の集中制限もこの時点では課せられていた。銀行は、全米預金量の一〇%以内、州預金量の三〇%以内という預金量制限もまだ存在していた。しかし、こうした市民の側に立っていた法律も次第に形骸化して行った。

 業務制限については、伝統的な預貸業務では利益が上がらなくなった銀行側の事情から、緩和されるようになった。一九八五年、銀行監督当局は、銀行持株会社の子会社ならば、ミューチュアル・ファンド(常時、換金できる投資信託)(19)の仲買(ブローカレッジ)業務が認可された。ミューチュアル・ファンドは、株価上昇を受けて貯蓄商品として市場の人気をさらっていた。さらに、預金金融機関がその保有する金銭債権を分離し、証券化して発行するという債権の証券化が隆盛を見ることになった。とくに、住宅証券が大きな比重を占めるようになった。

 こうして、「銀行の証券業務への参入やその保有債権の証券化の進展は、銀行が、自らリスクをとって貸出を行う伝統的な間接金融から、投資家がリスクを負担する直接金融にその業務をシフトさせていることを意味する」(樋口[2003]、59ページ)。

 樋口修氏の上記論文には、銀行収益の中身の変化が示されている。Federal Reserve Bulletinから採られた数値である。一九八五年の米国の商業銀行の粗収入に占める融資収入(ローン)の比率は六五・七%であったが、二〇〇二年には五二・二%にまで下落した。他方で、証券を扱う「その他の非金利収入」の比率は、同期間に、一〇・四%から二〇・四%に増大した。証券化の流れが、銀行業務を追いつめたのである。

 二〇〇八年の米国の金融恐慌は、こうした証券化の流れが自然かつ合理的なものであるので、その流れに沿うことは不可避であると言えなくなったことを意味している。生産と雇用確保につながらない、単にカネ儲けをするだけの証券化を、新金融商品として、金融当局が認可する必要性などそもそもあったのだろうか。

  銀行が、証券の膝下に屈するということは、いわゆる「銀行と証券の利益相反問題」の次元を超えて、銀行が証券の利益を擁護する事態を招くだけではないのか。結果的に生産に資金が回らなくなる。はたして、これが、金融の進化と言えるのであろうか。


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