フルベッキは、彼自身が、日本人に発音しやすく、フルベッキと自称したが、正しくは、グイド・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeek、1830~1898)である。オランダのザイスト市に生まれる。両親は、敬虔なルター派の信徒であった。モラヴィア教会で洗礼を受ける。同派の学校で蘭・英・独・仏語を習得し、ここで得た宗教的感化と語学力は生涯の活動の柱となった。
ユトレヒトでエンジニアリングを学んだ。1852年、22歳の時、義兄の招きで渡米、ウィスコンシン州の鋳物工場で働く。1年後にニューヨークに移動、重症のコレラに罹ったが、完治した暁には宣教者になることを誓い、1855年、ニューヨーク州オーバン神学校に入学。
安政4(1857)年、S. W. ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 中国名、衛三畏 、1812-1884)らによる日本宣教の呼びかけに応じ、米国オランダ改革派教会より最適任者として選ばれ、按手礼を受ける。
按手(あんしゅ)とは「手を置くこと」である。按手礼は、神の祝福や力を伝えるための象徴的な行為であり、聖霊を受けることである。按手礼を授かって「正教師」となる。聖礼典(聖餐式と洗礼式)は正教師しかできないとされている(http://church.ne.jp/chitose/minister.html )。
フルベッキは、安政6(1859)年にブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-1880)、シモンズ(Danne B. Simmons, 1834−1889)の3人で長崎に着いた。
ブラウンは、米国オランダ改革派教会派遣の宣教師。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。アメリカ開拓のピルグリム・ファーザースの子孫であり、敬虔篤信な母フィーベは讃美歌319番の作者。1932年エール大学卒業。ユニオン神学校に学び、ニューヨーク市の長老教会に属した。選ばれて中国モリソン記念学校長となる。1839年マカオ、のち香港に移り、8年間中国青年のキリスト教化に尽くしていた。
シモンズも、オランダ改革派教会の派遣宣教師兼医師とし到着した。しかし、翌年の春には宣教師を辞して、完全なる医師としての道を選び、居留地82番に開業した。
フルベッキは、長崎で済美館の英語教師を務め、元治元(1864)年、校長となる。このとき、大隈重信、副島種臣が塾生であった。フルベッキに惚れ込んだ大隈重信は、慶応2(1866)年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館にフルベッキを招き、自らも学び・教える。
また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。上野彦馬が撮影した写真が県立長崎図書館に残っている。
明治2(1869)年、大隈の招きで、上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。
フルベッキは、同年、明治政府の顧問となり、政府の諮問に答え献策した。大隈重信に手渡したBrief Sketchは、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。また太政官顧問としてのフルベッキは主に各国の法律の翻訳や説明にあたった。
その後、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる、明治19(1886)年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学教授、明治学院理事会議長などを歴任した。
明治20(1887)年、年明治学院の教授時代にフルベッキは、A Synopsis of all the Japanese Verbs. with Explanatory Text and Practical Applicationという、日本語の動詞活用の本を横浜Kelly & Walshから出版している。
明治20(1887)年12月31日、『旧約聖書』の日本語訳が完成した。この中で「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている。
また宣教師として日本各地を伝道して歩き、余暇には数々のキリスト教入門の書を出版した。『人の神を拝むべき理由』もその一つである。
フルベッキは7男4女をもうけた。息子のギュスターヴ(Gustave Verbeek, 1867-1937)は米国に渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。
孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック(William Jordan Verbeck, 1904-)は陸軍士官学校を卒業後、米陸軍第24師団歩兵第21連隊長として太平洋戦争に従軍、レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。
明治政府の教育制度の出発点となった「学制」の立案については、政府顧問であったフルベッキの貢献が、森有礼のそれと共に大きなものであった。
しかし、その具体化の段階において、政府内に深刻な意見の対立が生じた。井上馨らは、有力政治家で構成された岩倉使節団の留守中に、重大な改革を実施すべきではないと反対し、一方の大隈は即刻の学制実施を主張した。その結果、明治5(1872)年6月、案文が成立したが、この段になって再び閣内で方針対立が顕在化した。案文を直ちに実施したいと考える大木喬任(たかとう)ら文部省側に対して、井上馨ら大蔵省側は、国庫が逼迫しているので実施を急ぐべきでないと強く反対した。
大隈が強引に押し切り、四民平等かつ女性をも対象にした「学制」に結実した。この「学制」は余りにも理想的に過ぎて、7年後には「教育令」にとって代わられたが、フルベッキが大きく関わっていたのである(『早稲田学報』2002年11月号『大隈重信の義務教育実施への貢献』、http://www.waseda.jp/jp/okuma/educator/educator03.html )。
このフルベッキが、福井での教育を行う人材の派遣を米国オランダ改革派教会に要請し、グリフィスが志願したのである。
そして、甥の兄弟をフルベッキに預け、米国に留学させた横井小楠との推薦で、松平春嶽もグリフィスの招聘に同意し、ここに、福井とグリフィスとの接点ができたのである。