消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.126 教育勅語

2007-07-03 00:21:53 | 福井学(福井日記)

 安政5(1858)年、日本は、米・英・露・蘭・仏の5か国と修好通商条約を結ぶ。直ちに、キリスト教世界は、日本におけるキリスト教伝導の可能性についての調査を行った。

 すでに見たように、プロテスタント側は、米国伝導局派遣の伝道師・S. M. ウィリアムズ、米国聖公会牧師・E. W. サイル(Syle)、ポウハッタン号の軍隊付牧師・ヘンリー・ウッド(Wood)の3名が、そろって長崎に上陸して長崎奉行と面会し、アヘンとキリスト教の導入は日本では禁じられているとの説明を受けたものの、カトリックではない、真のキリスト教を伝えようと、米国の聖公会・長老教会・改革教会の伝道局に宣教師派遣を要請する手紙を書いた。

  彼らからすれば、カトリックが邪教なので、日本人に受け入れられなかったが、真の宗教なら理解してもらえるはずだと強引に解釈したのである。



 手紙には、ただちに反応があり、1859年から1863年にかけて各教会から以下の宣教師たちが派遣されてきた。聖公会からはJ. リギンズ(Liggins)C. M. ウィリアムズが、長老教会からはJ. C. ヘボン(Hepburn)D. トムソン(Thompson)が、改革教会からはC. R. ブラウン(Brown)・D. シモンズ(Simmons)・J. H. バラ(Ballagh)が派遣されたのである。彼らは、キリシタン禁制の立て札がまだ立てられていたので、主として英語塾を開き、医療活動をしていた。

 カトリックからは、安政6(1859)年9月、ジラール神父(Prudence Sepraphin Barthelemy Girard, 1821~1867)がローマから日本教区長代理に任命されて横浜に上陸した。

 同神父は、1862年、横浜本村境に天主堂を建設した。当時、中国、日本、朝鮮では、カトリックは、天主公教と呼ばれていた。

 1865年大浦天主堂の献堂式の日に、3名の隠れキリシタン婦人が信仰告白し、以後、長崎、熊本地方で5万人の隠れキリシタンと連絡が取れるようになった。

 しかし、同年、「浦上四番崩れ」という隠れキリシタン大迫害が起こり、約3394人の浦上村キリシタンが幕府の裁判を受けた。新政府に受け継がれたが、所払いとなり、各地で重労働の苦役を課された。

 彼らはそれを「旅」と称した。明治6(1873)年のキリシタン禁制の高札が撤去される5年間で662人が過酷な労働で死んでいった。

 当時、潜伏キリシタンが摘発、処刑されることを「崩れ(くずれ)」と称した。浦上のキリシタンは表向きは仏教徒を装い、張方や水方、聞役などに組織されたキリシタンの秘密組織に属して信仰を守っていた。

 一番崩れは寛政2(1790)年に、二番崩れは天保13(1842)年に、三番崩れは安政3(1856)年にあったが、いずれも小規模のものであった。しかし、四番崩れは浦上村3000余人を総流罪にするという空前絶後のもので、史上に残る最大級の弾圧であった。



 事件は幕末の元治2(1865)年、建てられて間もないフランス寺(大浦天主堂)を訪れた浦上のクララてるなど10数人の人々の信仰告白から始まった。この告白は、2世紀半もの耐えてきた浦上の潜伏キリシタンの存在を示すものであった。



 そして、この信徒発見のニュースは、プチジャン神父(Bernard Petitjean, 1828-1884)によってただちにローマ法王に報告され、全世界に報道された。

 宣教師の説得に勇気を得た信者たちは、公然とキリシタンであることを明らかにし、聖徳寺(長崎市銭座町)の檀家から離脱して幕府の寺請制度を否定する態度に出た。



 これに対して長崎奉行は一斉検挙の方針をとり、慶応3(1867)年6月4日未明、風雨をついて奉行所の捕方170名が浦上村を急襲し、中心人物と目された68名を逮捕収監し、きびしい拷問によって仏教への改宗を迫った。

 しかし、このことは外国領事団の知るところとなり、彼らの強硬な抗議に苦慮した幕府は、処分を未解決のまま一応全員を釈放した。この問題は明治政府にひきつがれた。



 慶応4(1868)年2月、九州鎮撫総督として長崎に着任した沢宣嘉は、ただちにこの問題に取り組んだ。かつて攘夷論者として名をはせた沢宣嘉(彼は三条実美らと共に長州へ落ちのびた七卿の一人であった)をはじめ、キリシタンに無理解な長州の伊東聞多ら参謀によって、ここに浦上一村3000余人を根こそぎ総流罪とするという一大処分案が企画され、御前会議(明治天皇の前で行う最高の会議)にかけられ、同年4月25日に処分が断行された(http://www2.ocn.ne.jp/~oine/incident/urakami4ban.html)。

 5万人全部がカトリック教徒として復活したわけでなく、1873年時点で、カトリック教徒として認定されたのは、1万5000名だけであった。カトリックの日本での布教活動は地味なものであった。それでも、昭和8(1933)年の統計によれば、日本本国だけで、12教区、228教会、聖職者265人、信者9万人強であった(桜井匡『教派別日本基督教史』 隆章閣、1934年)。

 西暦11世紀にローマ・カトリックから分かれたギリシャ正教がロシアに入ってロシア正教会(オルソドックス)となるが、日本には、これに類似したキリスト教が、カトリックとは別に入っていたらしい。シルクロード沿いに中国を経て日本に到達した東方キリスト教会があったらしい。

 ロシア正教会の司祭が日本に初めてきたのは、安政6(1859)年であった。函館にロシア領事館が設立され、そのときに領事に伴われて赴任してきたのがマアホフ司祭であった。領事館内で聖堂が設置されていた。マアホフは病気のために1年余りで帰国する。交代で赴任してきたのが、ニコライ司祭である。



 ニコライは、神学大学在学中にロシア海軍少佐・ゴローニンの『日本幽囚記』(1816年)を読み、日本での伝道を夢見ていた。



 
彼は、1861年6月2日に函館に到着した。25歳のときであった。彼は、赴任まもなく劇的に信者を得る。



  坂本龍馬の従弟に沢辺琢磨(さわべ・たくま)という函館神明社の神官がいた。根っからの攘夷論者であり、ニコライを切り捨てようとしてやってきた。28歳であった。

 しかし、ニコライに、正教を学ばないで、邪教と断じていいのかと一喝され、聖書を読んで回心した。

 
沢辺は仙台の同士たちを函館に呼び寄せて熱心な信者にした。小躍りしたニコライは、ペテルブルクに一時帰国し、日本伝道会を設立し、自らが会長となって伝道資金補給の途を開いた。函館ハリストス正教会のハリストとは、ロシア語でキリストのことである。

  函館に帰着後、アナトリイ司祭が赴任、ニコライは伝道の本拠を東京に設立すべく、神田駿河台の火消しの屋敷を買い取り、あのニコライ堂建てた。明治38(1905)年には、信者数は全国で2万8000人を超えた。



  ニコライは明治45(1912)年2月、77歳で帰天、京都のセルギイ主教が日本の後任の大主教となった。

 ニコライは修道名で、ニコライ・カサートキンと呼ぶのが通例である。正式名は、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Ioan Dimitrovich Kasatkin, 1836-1912)。しかし、ロシア革命で大打撃を受け、昭和7年の信徒数は1万6000人にまで減少してしまった。

 1873年のキリスト教布教が公認されて以降、日本のキリスト教は非常に活発に行動するようになった。明治18(1885)年、明治政府は欧化主義に舵を切り換えた。いわゆる鹿鳴館時代の到来である。キリスト教に入信することが、近代的エリートのステイタスにまでなった。

 元々はキリスト教反対論者であった福沢諭吉でさえ、その批判のトーンを限りなく下げていた。



 
リアリストの面目躍如である。ミッションスクールに、上流階級の子女が競って通うようになった。1885年から1890年の5年間という短い期間にプロテスタント信者数は1万1000人から3万4000人にまで激増した。



 1890年の教育勅語は、キリスト者の手になるものである。原案は、クリスチャンの文学博士・中村正直(なかむら・まさなお)であった。この原案を完膚無きまで修正したのが、哲学者の井上哲治郎であった。



 森有礼はクリスチャンであった。1889年2月11日の憲法発布の当日、森文部大臣は伊勢神宮神官・西野文太郎に暗殺された。



 1891年クリスチャンの内村鑑三は、第一高等学校教授であったが、教育勅語への礼拝を行わず、会釈だけですましたことで物議を醸した。キリスト教への非難の高まりの中で、当の内村鑑三と、植村正久、柏井園(かしわい・えん)はつぎのような声明を出した。

 「キリスト教は忠君愛国と矛盾せず、反ってこれを完成・成就するものだ。表面は恭しく拝礼しながら教育勅語の誠心に違反する不忠・不道徳な輩とは異なり、キリスト者は勅語に対する拝礼はせずとも勅語の精神を深い敬意をもって受け入れ日常生活の中に立派に実践して行く真の愛国者である」。

 明治27(1894)年の日清戦争時、キリスト教界は、演説会・パンフレット・軍隊慰問・軍人遺族の救済、等々で、日清戦争を支持した。戦争協力の理由には聖書が使われた(「王に従え」、ペテロ、2:13-17、ローマ13:1-7)。後進的な清国文明を打破して新文明樹立に力を貸す氏名が日本に神から課せられているとしたのである。

 資料は、「日本のためのとりなしニュースレター」2003年6月1日号;http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2003/2003.06.pdfを参考にした。

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