消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシャ哲学 12 苦行

2006-07-08 19:25:36 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
なぜ、宗教家たちは苦行をするのだろうか。私は永平寺の近くに住んでいて、パッション(気力)がなくなったなと感じる時には、早朝から永平寺の読経を聴きに行く。そう言えば、パッションとは「受苦」のことだった。腹の底から沸き出る僧たちが読経する低い和声は、魂を洗い清めてくれる。

しかし、読経だけでも、十分、心が安まるのに、ここ永平寺の僧だけでなく、世界中の僧が、自らの肉体を痛めつけて、魂の浄化を図るのはなぜなのだろうか。昔から不思議なことだと思いながら、その答えを見出せないでいた。インドの僧は、実際、わが肉体を剣で刺し貫く。ただし、大道芸人よろしく民衆の前でそれを行うヒロイズムはいただけないが、苦痛を通じて、魂から邪念を振り払おうとする行為であることは確かである。肉体を痛めつけることによって、ある種のエクスタシーを得ることができると、その道の好事家の本には書いてあるが、その行為は、まるで肉体を憎み、肉体を抹殺したいかのように、外部からは見えるものである。

私たちが、もっぱら性的興奮状態を表現する言葉として使用する「エクスタシー」という言葉は、ギリシャ語の「エクスターシス」から来ている。我を忘れ、魂が自分から去ってしまうという意味での「忘我脱魂」が、エクスターシスである。狂気と熱狂によって、憧れる神との一体感を味わうために、宗教界では、このエクスタシーが多用された

 古代ギリシャ時代には、トラキアの詩人・オルペウスが広めた新しい宗教運動が、次第にギリシャ人の心を捉えるようになっていた。この宗教は、肉体から魂を離脱させることを目指して、肉体をいじめたり、狂気や熱狂によって、エクスターシスを得ることを、神(ディオニソス)との合一を達成できる手段と見ていた。

 プラトンは、それを毛嫌いしていた。狂気と熱狂で自己を失った集団がオルペウス教信者たちであると、一刀両断で切り捨てたのである(『饗宴(シュンポジオン)』)。オルペウス教の神髄は、肉体を、魂が閉じ込められている墓場と見なし、その墓場から魂を解放すべく苦行をするという点にある。

 それは、転生の思想である。魂は、本来、神の許にあった。それが、人間の肉体の中に閉じ込められるようになってしまった。折角、肉体が滅びても、魂は、解放されず、また別の肉体の中に再生する。それを繰り返す。魂は、忌まわしい現世の肉体に綴じ込まれれることによって、現世のあらゆる苦しみを味わってしまう。肉体(ソーマ)こそ、魂(プシケー)の墓場(セーマ)である。

 戒律を守り、禁欲生活を送り、秘儀に参入して供え物を捧げ、浄め(カサルモス)に与(あずか)らなければならない。そして、肉体に苦しみを与えなければならない。そうすることによって、魂は、転生を繰り返しながら現世に留まる苦しみから解放される。魂は肉体を去って、永遠の幸福を味わえる「浄福の者たちの島々」に行くことができる。そうした秘儀ぶりをディオニソスが認めてくれて、その神が私たちを永遠の幸せな島に連れて行ってくれるというのである。このように、戒律、浄め、禁欲の生活を送ることによって救済されるとしたのがオルペウス教であり、それは、ピタゴラス派の観念でもあった(岩崎允胤『ギリシャ・ポリス社会の哲学』西洋古代哲学史(1)未来社、1994年、補論)。

 出隆『出隆著作集・別巻1・ギリシャ人の霊魂観と人間観』(勁草書房、1962年)は言う。

 「(この考え方は)今は、神々の天から堕ち来たって、この我々の肉に宿っているが、本来は神的存在であり、したがって、いつかは再び肉の束縛を脱して、神々の許に還り得るものとみるプシケー観である。このプシケー観の由来は、東方や北方からの種々の儀礼信仰の混淆として複雑に説明されるべきであり、しかも多くの不明な点を残すほかないであろうが、おそらくはディオニソス神の祭りがダニューブを越え、トラキアを経て、ギリシャ本土に伝播したことに由来する」。

 出隆によれば、前6世紀にはディオニソス神はオリンポスの神々の列に加えられた。さらに、主神ゼウスと並び称される重要な神となった。そのためには、原始的熱狂の中で踊り騒ぐ粗暴な祭りの主神としての神ではなく、ギリシャに醇化された平和な神として、葡萄などの、植物をもたらす神、植物だけでなく、すべての生命を育くむ神、生命の喜びを与えてくれる神としての役割を、ディオニソスは、ギリシャの宗教界から新たに与えられなければならなかった。

 しかし、ギリシャの民衆の間では、本来のディオニソスの荒々しい祭りが踏襲された。

 「ディオニソスは、ギリシャ人の間でも、その祭りに加わる人間を、現在のみじめな自分とは別のものに生まれ変わらせる不思議な力を有するものと信じられ、この神の祭りに加わって、踊り狂い、陶酔忘我の境地に入ることをもって、神に憑かれた状態(エンソウシアスモス)だとする旧来の意味は忘れられないで、なお諸地方にこの忘我脱魂(エクスタシス)に入る熱狂的な祭りの形式が残っていた」(同上)。

 祭りそのものは抑圧されていた農民の一時的な精神的解放をもたらす熱狂的な酒と踊りを内容とするものであったが、そうした行為の裏に流れる転生の観念は、ギリシャ人に魂(プシケー)と神、プシケーと肉体との関連についての初めての思考を促すものであった。

 タイタンの死骸の灰と、タイタンに食われたディオニソスの肉の灰から生まれてきたとされる人間には、その肉体にタイタン的忌まわしい要素を宿している。しかし、魂は、ディオニソスの神的な要素を受け継いでいる。ただ、受け継いでいるといっても、ディオニソスの心臓は女神アテナの手によって、ゼウスの許に届けられ、ゼウスはそれを嚥下してしまったのだから、人間の魂が受け継いだのは心臓のないディオニソスであった。だから、失った心臓を求めて人間は、心臓を備える本当のディオニソスに憧れ、ディオニソスに「救いの神」(ディオニソリセウス)を期待するのである。ディオニソス自身も、自分を敬い、祀ってくれる信者の魂を、悪と不運から救うことを念願しているものとされる。人間は、盲目的であり、無思慮であるために、自力で魂の解放を遂げることはできない。救いは、ただ、恵みの神であるディオニソスの慈愛を通してでしか可能ではないのである。

 ここまで説明した出隆の次の結論は強烈である。

 「ここに、我々は、あのホメロス的に朗らかなギリシャに、早くもその黄昏(たそがれ)の迫ってくるのを認める。すなわち、本来の、あるいは、少なくともホメロス以前の、自力的現世主義の一角が壊されて、他力本願の彼岸主義が、これに変わろうとしているのを認める」(同上)。

 強大な影響力をもっていたピタゴラス派は、オルペウス教を流布していたがゆえに、徹底的な迫害を受け、二度にわたって権力側からの攻撃にあった。宗派は雲散霧消させられ、歴史の舞台から文献的にも抹殺された。権力の攻撃に対して、プラトンは学問を」弾圧する権力側を諫めるのではなく、逆に、権力による弾圧への援護射撃を行った。

 マグナ・グライキアで大きな勢力になっていたピタゴラス派は、クロトンの権力者・キュロスによって追放された。ピタゴラスはクロトンの北方のメタポンティオンへと難を逃れ、その地で哀しく生涯を閉じた。これが第1回目の迫害。

 2回目の迫害は、同じくキュロスを首領とする武装兵によって、会合を開いていたピタゴラス派の人々が、虐殺されたことである。虐殺が挙行された場所は、クロトンの有名な競技場であるミロンの屋敷であった。集まっていた人々はほとんど皆殺しにされ、わずか、2名が現場から逃走できたにすぎなかった(ヤンブリコス『ピタゴラスの生涯』)。

 生き残った2人のうち、リュシスは、ペロポネソス半島のアカイア、さらに、テバイへと逃れた。テバイではその地の指導者たちによって暖かく迎えられた。リュシスの弟子の一人にピロラオスがいた。彼は、ソクラテスと同時代人であり、「中期ピタゴラス派」を主宰した人である。彼はクロトン生まれであった。このピロラオスの弟子の一人が、プラトンの『パイドン』に出てくるケベスである。さらに、タラハには、「後期ピタゴラス派」の指導者・アルキュタスが出た。彼は、生涯で7回も将軍に選出されたほどの人望の高い哲学者であり、学問と宗教との関連を問題にした人であった。このアルキュタスは、シチリア旅行後のプラトンに大きな影響を与えた人であると言われている。

 そして、ピタゴラス派の文献は廃棄され、ピタゴラス派は、ギリシャ哲学の歴史から抹殺されてしまったのである。 

 ここまで、説明すれば、ディオニソスを復権させようとしたニーチェが、衆愚政治の犠牲になったとはいえ、潜主権力の一角を担っていたソクラテス、ディオニソス的オルペウス教、および、その教義をを民衆に広めていたピタゴラス派を、徹底的に排除したプラトン、そしてポリスを踏みつぶしたアレキサンダーに仕えたアリストテレスに対して、口を極めて罵ったことの意味が理解できるだろう。民衆の怒りは、たとえ理路整然とした理論武装をしていても、時の権力の庇護下で学派を伸ばす正統に対しては、本能的に敵視し、反乱を起こすものである。自力本願ではなく、他力本願の宗派こそが、つねに時の権力と戦ってきたという史実を私たちは軽視してはならない。福井の地にいると余計そのことを感じる。一向一揆は、権力者によって抹殺されたが、権力者が使ったのも浄土真宗に対抗する宗派であった。福井は、宗教が権力者によって使われ、ねじ曲げられた歴史の証言の地である。 

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