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酔生夢死ってわけでもないけれど、、、日々雑感

大分県南部エリア一人旅①〔津久見・佐伯編〕

2021年02月14日 | 旅行記

大分県は姫島を含めて北部・中部エリアは様々な所を訪れたことがあるのですが、南部エリアはJR九州の日豊線の「にちりん」で通過したことはあっても本格的に巡ったことがないので、今回、一人旅(佐伯で1泊)でガッツリ回ってきました。

津久見市、佐伯市、豊後大野市、竹田市です。

(地図はネットより拝借。)

2日間でレンタカーの走行距離は約600km、歩いた歩数は、1日目約23000歩、2日目15000歩。(笑)

訪れたスポットをいくつかプロットすると、こんな感じになります。

(「空の公園」は時間切れでカット。)

「四浦半島」では九州一の河津桜がそろそろ見頃かもと思い、重点的に回ってきました。

 

一人旅ということでボリューム満点の行程にしましたので、出発は午前5時過ぎ。

大分道の由布PAでトイレ休憩。

(まだ夜明け前。由布岳はもう雪がほとんどないですね。)

実は、「別府湾SAで日の出を拝めたらなぁ。」と日出時刻をチェックして出発しました。

到着時、ちょっとまだ早いかぁ、、、。

(日の出は7:10頃の予報。)

まだ売店も何も開いていませんが、建物内で「ハイウェイ記念スタンプ」を押してみたりして、少し時間待ち。

(最近、高速道路のPA・SAでスタンプサービスをやっていることに気付きました。特に集めてはいません。)

雲が多いですが、ようやく太陽が昇ってきましたね。

(左に写っている大きな建物は、「立命館アジア太平洋大学」(APU)。)

日の出を拝むことができて、旅の幸先良し、です。

 

最初は、津久見エリアから巡ります。

津久見と言えば、みかんで有名。それと関係があるかどうかは分かりませんが、日本最古のみかんの木があります。正確には紀州みかん系の「小みかん」という種類で、「尾崎小みかん先祖木」。(昭和12年、国指定天然記念物。)

東九州道の津久見ICを降りてすぐの所にありますが、かなりのマイナースポットのようです。

(車2台くらいのスペース。ここからは徒歩。)

道順案内の看板がなければ、とても入って行けそうにもない、人さまのみかん畑の中を歩きます。

この小径の終点に「尾崎小みかん先祖木」があります。

(残念ながら、柵があり立入禁止で、近づくことはできません。)

事前の勉強によると、保元2年(1157)に仁藤又四郎さんがここに移植したのが現在の先祖木で、樹齢800年超、面積446㎡、今も平年作283kgを生産する、とのこと。

 

続いて、「宗麟公園」へ。

(民家の中の細い道を通り抜けると到着。)

中九州6ヶ国を支配したキリシタン大名の大友宗麟(1530-1587)の終焉の地が津久見とのことで、宗麟公園にお墓があります。

上の写真に写っている奥の階段を上り切ると、いきなり宗麟さんの胸像があります。

左手の方に進んで行くと、墓所があり、キリスト教式のお墓と、仏教式のお墓が少し離れてあります。(碑だけかもしれませんが。)

(こちらはキリスト教式。)

公園なので、ちょっとした展望所があって、津久見の街並みを眺望することができます。

(街並みの向こうは海、その向こうは「長目半島」(かな?)。)

 

津久見の市街地に出て、地域のお宮「赤八幡社」にお参り。

(秋季例大祭では奉納神楽や子ども相撲大会が開催されるそうです。)

立派な楼門。

(楼門は大正5年(1916)建立。)

赤八幡社は、建久元年(1190)に石清水八幡宮の分霊を勧請されたことに始まるとのことです。天正14年(1586)に大友宗麟に焼かれましたが、慶長6年(1601)に佐伯藩初代藩主毛利高政が再建し、赤・青両郷の総鎮守に定められました。

赤八幡社に今回の旅の安全をお願いして、九州一の河津桜の名所「四浦(ようら)半島」へ。

半島の桜の名所を巡りますが、大体こんな感じです。

例年であれば、この時期は「豊後水道河津桜まつり」が開催されます。

(一昨年のパンフレットです。)

今年は、コロナの影響で中止。(数日前に発表されました。)

四浦地区では、15年前から地元のみなさんが河津桜を植え始め、今では5000本となり、この時期には花見客でにぎわうそうです。

半島巡りのスタートは「四浦展望台」。

ここからは、半島先端にある保戸島、豊後水道、リアス式海岸の景色を眺望できます。

(奥に重なって見えるのが保戸島。)

桜の方は「咲き始め」ってところでしょうか。

四浦半島にどんどん入って行きます。

「落ノ浦」地区の少し高台にある河津桜展望所。

(まだ咲いていません。(笑))

海の方に下りて来た所が落ノ浦の港。

海沿いに少しだけ走ると、「田ノ浦」天満社があります。

ここも桜の名所ですが、見頃まではもう少しでしょうか。

田ノ浦の港です。

次は、「津久見市立越智小学校」前の桜です。

(「高浜海水浴場」とありますが、高浜地区は、半島の山を越えた向こう側。ここから山越えの道が通っているので、この看板が出ているのだと思います。)

越智小学校は既に閉校されていますが、桜の名所として親しまれているようです。

(運動場の向こうに校舎が見えます。)

海沿いの県道沿いに河津桜の木が何本もありますが、メジロが飛び交っていました。(残念ながら写メには撮れず。)

小学校前、海側の景色です。

(こちらサイドの海岸線はリアス式で海水浴場はありません。)

上の写真の奥に海に突き出した小山がありますが、こちら、「愛宕神社」です。

(巨岩と鳥居、漁師さんの守り神でしょうかね。)

四浦半島の先端にある、間元(まもと)港。

(写真には写り切っていませんが、魚釣りをしている人が結構います。)

間元港から更に先に歩いて行くと、向かいの「保戸島」はこんなに近く。

(近くても半島と島の間は「間元海峡」。)

「河津桜まつり」が開催されていれば、間元港が発祥と言われている「ひゅうが丼」(マグロのごまだれ漬け)を食べてみたかったです。

 

半島を戻ります。

道中の中程の小高い丘の広場に「河津桜まつり」のメイン会場(?)となる「蔵谷」地区のスポット。

(地元の物産の販売なども予定されていたそうです。)

最後に「物産館つくみマルシェ」に立ち寄ります。

(「つくみイルカ島」(有料)が併設されています。)

道路向かいに大きな駐車場がありますので、例年の盛況ぶりが想像できます。

記念撮影スポット(?)。

大分県知事ご夫妻も桜を植樹されています。

ここの桜も「まだこれから」というところ。

これで四浦半島の半島巡りは終了。河津桜は見頃にはまだまだでしたが、早咲きの桜を楽しむことができました。

 

さて、次からは佐伯エリアに入って行きます。

ちなみに、今回の旅のプランを考えている時に初めて知ったのですが、佐伯市は九州の市町村の中でも最も広い(面積903㎢)そうです。

まずは、「かみうら天海展望台」へ。

「かみうら天海展望台」は、天体観測の施設(有料)が併設されている展望台で、「300mm反射式赤道儀式望遠鏡」を装備しているという観測ドームの外観でも見てみようと思います。

駐車場に到着しましたが、随分と荒れていて、ちょっとびっくり。

(地べたに落ちている看板の「瀬会公園」は「ぜあい」と読む。)

写真以上に❝放置感❞があります。これはどう見ても使われていないですね。

写真右に写っているドームには、外付けの階段がありますので、恐る恐る展望台に上ってみました。

佐伯湾のなかなかの絶景を見ることができます。

(写真フレーム外ですが、右側にはこれから訪れる「豊後二見ヶ浦」も見えます。)

これだけの眺望があるなら、公園にでも整備すればいい憩いの場になるのになぁ、と荒れ放題がちょっと残念なスポットでした。(あるいはまだ現用なのかな。)

「かみうら天海展望台」から下りて行くと、年末のニュースで大注連縄の張り替えの様子を観て、訪れてみたかった、「豊後二見ヶ浦」はすぐそこです。

(学校と隣接してます。「佐伯市立東雲中学校」だと思います。)

学校の校庭と境目がよく分からない堤防沿いを歩いて行くと、その先にあります。

(景色が素晴らしくて学生さんたちも楽しいでしょうね。)

立派な夫婦岩です。

(これは見応えがあります。美しいです。)

夫婦岩を結ぶ大注連縄は、長さ約65m、重さ約2トン、最大直径約75cm(1994年、ギネスブック登録)。毎年12月第2日曜日に地元の方が張り替えるそうですが、ニュースでも言っていましたが、一般の人も張替作業に参加できるそうです。

堤防を下りて、近くまで行くことができます。

(多分ここに仮設の❝橋❞を架けて注連縄を夫婦岩に運んでいくのでしょうね。)

豊後二見ヶ浦、とても美しく、旅のテンションが上がるスポットでした。

 

次は、直前に計画に追加した、この近く山側にある「暁嵐の滝」へ。

暁嵐の滝は、「大分百景」(随分と多いですね(笑))のひとつで、全国的にも珍しい、海岸から僅か500mの所にある滝。

暁嵐の滝のスポットには、「暁嵐公園」、「瀧三柱神社」、「暁嵐石庭」という見所が集中していますが、マップのナビに「暁嵐の滝」と入れてしまったのが失敗でした。ナビが滝に一番近い地点(歩いてアプローチできる道があろうとなかろうと最寄り地点)で終了、結局、山の中を30分程歩き回りましたが、たどり着けず、断念。

駐車した場所から少し離れた所で発見したこの看板に従って山道に入って行きました。

(まぁ、何とも不安な案内ではあるのですが。(笑))

川はあるけど、滝の気配なし。

(この水量では滝にはならない、、、。)

遊歩道といっても人の気配もない山道で、ついには展望台のような所に出てしまいました、、、これはこれでいい眺め。

(豊後二見ヶ浦の夫婦岩が見えました。)

これ以上歩き回るわけにもいかず、次の訪問エリア「鶴見半島」に向かって出発することに。(暁嵐の滝は、この夜、ホテルでしっかりと場所を確認して、翌日再チャレンジ、無事訪れることができました。)

 

プランでは、鶴見半島までの道中に「塩湯」に寄って、海水を沸かした風呂で汗を流し、名物の「海鮮丼」を食べようかと思いましたが、駐車場は誘導員がいるくらい混雑。この時期、人が大勢いる所はスルーということで、通過です。

40分強は走ったでしょうか、「鶴見半島」北側の海沿いの道をかなり入った所にある「段々展望所」に到着。

(何とも雰囲気のある造形です。)

段々展望所は、鶴見半島の「梶寄浦」地区にあり、「大島」と幅500mの「元の間海峡」を望む絶景スポットです。

(左手前の小さな灯台は「元の間海峡標」で、岩礁があることを示し、座礁事故防止、航路の安全確保の役割があるそうです。)

潮の流れを見ていると分かりますが、元の間海峡は上げ潮と下げ潮が激しくぶつかる所で、大潮の時には海面に1m以上の段差の渦が巻くとか。

大島の右突端の「壇の鼻」をズームすると、波浪によって浸食された海蝕洞「壇の窓」を望むことができます。

ちなみに、段々展望所の大きさですが、結構立派な作りで、人と大きさを比べてもらうと、よく分かります。

(3人連れの旅の人たちですが、ちょうどいい感じでバラけました。(笑))

上の写真の右奥、遠く遠くに薄っすら見える❝島❞は、「水の子島」の「水の子島灯台」です。

(iPhone11のズームMAXです。)

次は、今、段々展望所から遠望した「水の子島灯台」に関係するスポット、「水の子島海事資料館」・「渡り鳥館」に立ち寄ります。

この分岐を海に向かって下りて行くと、「下梶寄海水浴場」に出ます。キャンプもできるらしく、人の姿は見えませんでしたが、テントが1つ立てられています。

(砂浜を背に撮っています。)

テントの後ろの石垣の中に「水の子島海事資料館」と「渡り鳥館」があります。

(海風から石垣の中の建物を守るため、出入口の階段は石垣の❝側面❞に小さく作られています。)

ほれぼれするようなヒバの大樹が❝門かぶり❞のようになっています。

この白く美しい洋館が「水の子島海事資料館」です。

「水の子島灯台」を守っていた吏員たちの退息所(休息所)跡を改装して、明治36年(1903)に造られました。平成10年(1998)、文化庁の登録有形文化財に指定。

建築(改装)当時は「逓信省」の管理下にあったので、屋根瓦には「〒」のマークが刻まれています。

(地面に大切そうに並べて置いてある瓦です。)

館内には、昭和34年(1959)に用途廃止で無人になるまでの暮らしぶりを彷彿とさせる当時の生活様式そのままの部屋や灯台の資料、古い漁具などが展示されています。

(手前にあるのは水の子島灯台の模型ですね。)

灯台守の休憩所ですから、当然かもしれませんが、天気の良い日には北東の方角、14.5km沖に水の子島灯台を望むことができるそうです。

同じ敷地内、お隣に「渡り鳥館」があります。海事資料館と同様、退息所の倉庫を改装したもの。

「渡り鳥館」には、水の子島灯台に衝突死した62種550羽の渡り鳥の剥製を展示しています。

(昭和38年(1963)から昭和59年(1984)までの間、この灯台に勤務した川原忠武さんが残されたそうです。)

なぜ渡り鳥が衝突死したかについては、渡り鳥のコースに灯台があることと、広い豊後水道の真ん中でとまる場所がないために、強い光を放つ灯台に向かって集まり衝突したのではないかと推測されている、、、なるほどねぇ。

 

水の子島海事資料館に下りてくる道の分岐まで戻り、今度は山側の道を進み、「鶴御埼灯台」をめざしますが、その途中に灯台遠景を含め360度のパノラマで景色を望める、「鶴御崎展望ブリッジ」にまずは立ち寄ることとします。

ここが駐車場、、、広大ですが、誰もいません。

この写真の中央遠くに白く四角いものが見えますが、これは、鶴御埼灯台(鶴見半島の海)を歌った、鳥羽一郎さんの「男の港」の記念碑。

(帰宅後、YouTubeで聞いてみました。テイストは「兄弟船」と似ていますね。(笑))

駐車場を挟んでこの碑と反対側に展望ブリッジへの「登り口」があります。

(「登り口」って、登るのかぁ、、、。)

杖があるということはかなりの登り道か。

10分くらいでしょうか、ぜいぜい息が切れる山道を登り切ると、展望ブリッジへのアプローチの階段に到着。

山道の途中にも感じていたことですが、この案内板を見て、戦時中、ここが軍事拠点であったことが分かりました。

「〇〇跡」という説明もありますが、特に説明もない跡もそこかしこにあります。

(兵舎のどの部分なのか。)

これが展望ブリッジへのアプローチ階段。

ブリッジと言うだけあって、頂上には確かにブリッジが。

本当に360度のパノラマで、実際にこのブリッジに立ってみると、その高さに足がすくみます。

(確か、西側の景色。)

「鶴御埼灯台」がこんなふうに見えます。

(灯台は南東の方角にあります。)

展望ブリッジ、絶景です。鶴見半島を訪れることがあれば(笑)、是非登ってみてください。

展望ブリッジの真下にも戦争遺構があります。

(海側に開口部があります。まるでトーチカのよう。)

登ってきた山道を❝下山❞し、いよいよ「鶴御埼灯台」(灯台は「埼」の字が違います)へ。

少し下る感じで数分走ると「鶴御埼灯台」の駐車場に到着です。

灯台への道に多いのですが、ツバキの木が続きます。(潮風への耐性などがあって強いのだと思います。)

数分歩くと、灯台のある場所、「鶴御崎園地」に出ます。

視線を振ると、「鶴御埼灯台」があります。九州最東端、海抜200mの絶壁に建っています。

(鶴御埼灯台は昭和56年(1981)に完成。)

ここは「旧海軍望楼跡」で、戦時中は要塞でした。

灯台の右にある遺構は物見のためのトーチカでしょうか。

灯台横に突端まで続くデッキ道が作られていますが、左は断崖で、低めの柵があるものの、これまた足がすくみます。

ここを歩くと、灯台が当時の要塞の上に建てられていることが分かります。

突端側から見た灯台です。

(この杭を逆さまに刺したような❝突起物❞には小窓が付いていて、外を見ることができます。これも当時の施設跡か。)

鶴御埼灯台には、灯台には珍しい展望ブリッジがあり、「幸せの鐘」が設置されていて、これを鳴らすために訪れるカップルもいるとか。

(海抜200mだけあって、ここに立つと、足がすくむし、お尻がキュッとなります。(笑))

遠くに「水の子島灯台」も望めます。

そして、ここは「九州最東端」の地。

鶴御埼灯台(=九州最東端)を訪れたことが分かる写真を「佐伯市観光案内所」(佐伯駅隣接)で提示すると、「九州最東端到達証明書」(200円)を発行してもらえます。

そう言えば、昨夏に「本州最西端の地」(山口県「毘沙ノ鼻」)を訪れて、「本州最西端到達証明書」をもらったなぁ。(笑)

灯台と絶景も堪能しましたので、駐車場近くまで戻って、「鶴御崎砲台跡地」に行ってみます。

(灯台へのアプローチとは違う道を下って行きます。)

1つ目の「砲台跡地」。

どうなっているのか、中が見えないので、滑りそうになりながら、足場が安全な所まで登ってみました。

(何とも言えない雰囲気です。重たいものを感じます。)

少し歩くと、2つ目の「砲台跡地」。

(2つの砲台跡地はそんなに離れていません。)

ここで引き返しました。ここからは灯台がこんなふうに見えます。

(砲台跡地も海に突き出した絶壁の上にあります。)

 

時刻は14時前。遅めの昼食のために、鶴見半島を出て少し南下、「米水津」(よのうづ)地区にある「海風館(シーフーカン)/市場食堂日保丸」へ。

「塩湯」をスルーしたので、随分と昼食が遅くなってしまいましたが、ここには、私の大好物のアジフライがあるので、❝Bプラン❞として狙っていました。

(海鮮丼系よりもアジフライ!)

「アジフライ定食」、登場。

(特大2枚、中2枚、何と4枚盛りというボリューム。これで800円!)

いやぁ~、美味しかった。さすが名物のアジです。

自家製タルタルを2枚で使い切ったので、あとは、醤油とソースで味変を楽しみながら完食。ごちそうさまでした。

 

当初の計画では、ここからもう少し足を延ばして、「空の展望所」、「空の地蔵尊」、「空の公園」の❝空シリーズ❞を訪ねる予定でしたが、絶景は十分堪能したのと、時間が押しているので、佐伯の中心地に戻ります。

30分弱走って、「佐伯城址」の麓にある「佐伯市歴史資料館」に到着。

(いい佇まいですねぇ。)

ちょうどバス停がこの前にあるのですが、私が通ると、学生さん(中学生かなぁ)が「こんにちはぁ」と挨拶してくれました。素晴らしい習慣だと感動。

こちらが資料館の建物。

(スッキリとした感じが印象的な、立派な資料館です。入館料300円。)

同じ敷地、向かいには、「毛利家御居間」が屋外展示として公開されています。

(こちらは無料です。)

資料館では佐伯の始まりから現代までの変遷・歴史を映像も含めて様々な展示物で勉強できます。特に、佐伯藩主毛利家の施政が勉強になりました。

(佐伯城のジオラマ。難攻不落かも。)

展示室から出た後、登城前に、百名城の公式スタンプをゲットしておきました。

(真ん中の小さなスタンプ。上の御朱印みたいなのは最近流行り出した「御城印」。天草の「富岡城」で一度買ったことがありますが、特に集めていません。)

 

それでは、佐伯城址に登ります。

お城の正門に当たる、「三の丸」の「櫓門」。

(実際に見ると、大きさ、広がりがすごくて、壮観です。)

櫓門をくぐる前に振り返ると、真っすぐに伸びる道があります。

ここは「馬場跡」とのこと。名残を感じるのは、現代に整備する時にとてもよく考えられたのだと思います。

写真左側は佐伯小学校ですが、ここに「四教堂」(しこうどう)の門が残っています。

(先程、資料館で知った「四教堂」です。)

「四教堂」は、八代藩主毛利高標(たかすえ)公が教育のために創設した藩校で、その門が現在の小学校の門として残っているようです。素晴らしいと思います。

櫓門をくぐります、、、くぐると、そこは侵入軍を迎撃する枡形になっています。

(結構深い枡形です。)

佐伯城の築城は、関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602)ですが、まだまだ防衛上の機能が必要な時代だったのですね。

ちなみに、佐伯の街中のマンホールの図柄は、この櫓門(と国木田独歩の作品の一節)。

櫓門を入った広場(三の丸跡)にある、目を引くモダンな印象の建物は「佐伯文化会館」。

(立派な建物ですが、昭和46年の開館以来の歴史を閉じ、閉館が決定したそうです。昨年9月発表。)

この鳥居から登り始めます。

登り道は3ルートあります。「登城の道」・「独歩碑の道」・「翠明の道」ですが、「登城の道」は立入禁止になっていましたので、人が登っている「独歩碑の道」へ。

(道のりは800mって書かれていたような記憶が。)

オフロードですが急勾配でもないのに、やはりぜいぜいと息が上がります。子どもたちが作ったのでしょうか、この「あと〇〇〇m」に元気付けられます。

到着しましたぁ。「独歩碑の道」というだけあって、石碑があります。

(桜が咲くと美しいでしょうね。)

佐伯の街を一望できます。絶景です。

(佐伯湾の方向を望みます。)

映画「釣りバカ日誌」のロケ地とは知りませんでした。

「本丸跡」へ登ってみます。

スタート地点の櫓門、文化会館、歴史資料館などが足下に小さく見えます。

更に進んで、「二の丸跡」からだったか、山側、番匠川の絶景を望みます。

登城を日課にされているような方がちらほらいらっしゃいましたが、すれ違うみなさん、子どもたちと同様、挨拶を交わしていただけるので気持ち良かったです。

下りは楽でした。櫓門の方に行かずに、道なりに下りてくると、ここに出てきます。

時刻は16時半を過ぎたところ。

この後、駅前のビジネスホテルにチェックインして、徒歩で「歴史と文学の道」を散策しながら、夕食に向かいます。

事前の情報収集では、佐伯と言えば「寿司」。

(夏場なら、新聞の切り抜きの「ガン汁」(モクズガニを使ったスープ)も魅力的なのですが。)

駅前のホテルにチェックインして、まずは「観光案内所」へ。

(地元の人も観光客も誰もいません。)

もちろん、「九州最東端到達証明書」をいただくためです。(笑)

(丁寧に封筒に入れてくれました。)

証明書の「到達日」に日付が入っていないのは、いつもなら案内所の方が書き入れてくれるそうなのですが、「コロナの感染予防のため、このままお渡しさせていただいています。ご了承ください。」とのこと。

せっかくなので、佐伯駅に寄ってみました。

改札前はこんな感じです。

(旅情を誘う雰囲気でいいですね。)

それでは夕食前の散策へ。

散策コースは、駅前から線路沿い、中川の支流の散策路を歩いて、「養賢寺」から「歴史と文学の道」に入り、終点の佐伯城址三の丸「櫓門」までをぶらぶらし、事前にリサーチしておいた、寿司と「ごまだしうどん」の名店「つね三」に向かいます。

歩き出してすぐ、「常盤雨水ポンプ場」の❝機械❞がすごく目立ちます。

(調べてみると、上流から流れてくるゴミを除去する「自動除塵機」と「ポンプゲート」などの機械一式とのこと。)

中川の支流だと思いますが、散策路としてきれいに整備されています。

(まだここは「歴史と文学の道」ではないと思います。)

橋の中央に立つ「佐伯神楽」の像が存在感抜群です。

JR九州日豊線の踏切の向こうのお宮は「五所明神社」。

五所明神社は、旧毛利藩の総鎮守一の宮。大同元年(806)の創建と伝えられ、近郷では最古、加茂・春日・住吉・梅ノ宮・稲荷の五所の明神を祭神としているのがその名の由来、などと鳥居前の説明板に書かれていました。境内のナギの巨樹(樹高約22m)は県指定の天然記念物。

「養賢寺」です。

(養賢寺は佐伯藩主毛利家の菩提寺。)

門の脇の木戸の貼り紙には「修行寺につき拝観お断り」と毅然と書かれています。

ここからが「歴史と文学の道」(「日本の道100選」)で、白壁の土塀が延々と続く、静かな山際の通りです。

(素晴らしい通りです。誰も歩いていない静寂が散策に最適です。)

「城下町佐伯 国木田独歩館」。

(17時を回っているので本日の営業終了です。)

本館の建物は、明治26年10月~同27年6月末の間、国木田独歩が下宿していた坂本永年邸です。坂本永年さんは、独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長で、公私ともに面倒を見ていたそうです。

「安井」(あんせい)。

(「やすい」ではなく「あんせい」。国木田独歩の作品にも登場するそうです。)

「安井」は、八代藩主毛利高標に仕えていた藩医今泉元甫が、飲み水に困っていた庶民のために、1781年に私財を投じて掘った井戸の1つで、他の2つの井戸「啞泉」・「甘泉」と合わせて、今泉元甫の「三義井」と呼ばれているそうです。

「茶室 汲心亭」。

「お茶を汲むということはお客様に心を汲んで接待する」ということから命名。茶会・俳句会・短歌会・川柳会・生花会など、伝統的文化活動に利用されるそうです。

「矢野龍渓生家跡」の碑に着いたら、もうすぐ櫓門です。

矢野龍渓(本名:矢野文雄、1850-1931)は、文学者、政治家、ジャーナリストとして活躍。生家跡は現在の佐伯小学校で、小学校の敷地の片隅に「藩主より賜った先祖の地を佐伯小学校に贈る」との意の石碑が残っているそうです。

ここで左折して、国道217号線を渡り、「なかまち」というアーケード商店街も横切ります。

(人がいませんね。)

「なかまち」商店街から一筋(だったかな)行くと、角地に「つね三」(つねさん)があります。

右の強烈なキャラは、てっきり「つね三」の大将のキャラかと思ったら、「佐伯ごまだしうどんイメージキャラクター」の「佐伯ごまだし大将」だそうです。(笑)

当店のごまだしうどんは何年か連続で大会の金賞に輝いているそうですので、佐伯名物の寿司(おまかせ)とのセットを注文。

(「おまかせミニうどんセット」を注文。)

生ビールと付き出しで一杯やっていると、先にごまだしうどんが出てきました。

「よくかき混ぜてください。」と言われましたが、つゆだけ一口飲んでみましたが、ほとんど味がなく、ごまだし団子を溶いて味が整うようです。

お味の方は、その名の通り、ごまと出汁の味(笑)で、うどんもコシがあって美味しいです。

おまかせの寿司が登場。

(青い皿が海のイメージで、寿司の美しさを引き立てています。)

メニューにウニが2つで880円と書いてありますが、そのウニがあります。メニューの中を見ていると、佐伯の南部の蒲江地区でウニが獲れるらしく、「蒲江のウニ」と書いてありました。

寿司が美味しいのは見た目の通りですが、ネタが大きい。「つね三」に限らず、「佐伯寿司海道」というパンフレットに掲載されている寿司屋の写真を見ても、同じようにネタが大きいので、ネタの大きさも佐伯寿司の特徴なのかもしれません。

店内にはお客さんが2組いましたが、みなさん地元の方のようで、大将と楽しそうに話していました。そんな中でのおひとりさまの旅人ですので、アウェイ感いっぱいで、寿司を味わったら早々にお店を出ました。

すっかり日も暮れて、店の前の「うまいもん通り」というネオンが、人気のいない通りで怪しげに光っていました。(笑)

(時刻は18時半。「つね三」は左の角地。)

ちなみに、地元のお客さんが「大将、アジフライある?」と聞いていましたが、「ごめん、今日はアジが入ってないから、フライも握りもないのよ。」とのこと。

お昼に「海風館」で「アジフライ定食」を食べておいて良かったぁ。(笑)

 

ホテルまではぶらぶら歩いて30分弱の距離。日が暮れてもそんなに寒くもならず、腹ごなしの散歩にはちょうどいい感じでした。

ホテルの大浴場で今日の23000歩のダメージを癒した後、部屋でのんびり。

さぁ、明日は予定よりも早く出発して、今日断念した「暁嵐の滝」に行ってみよう。

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