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酔生夢死ってわけでもないけれど、、、日々雑感

大分県南部エリア一人旅②(完)〔豊後大野・竹田編〕

2021年02月15日 | 旅行記

2日目。ホテルの朝食が6時半からやっているので、早々に済ませて、7時過ぎに出発。

(結構宿泊客の車が停まっています。)

昨日断念した「暁嵐の滝」に再チャレンジです。

昨日は、マップのナビに「暁嵐の滝」と入れて失敗したので、駐車場の名前になっている「暁嵐公園」で入力、、、JR九州の日豊線沿いの民家の間のかなり狭い道を通りますが、無事に到着。

(「瀧三柱神社」の一の鳥居横の道を抜けると駐車場です。1台停まっている車が私のレンタカー。)

夏場には水遊びをする家族連れが訪れるという暁嵐公園、駐車場もそこそこの広さです。

暁嵐公園は、「暁嵐の滝」を中心に整備された公園で、園内には、「瀧三柱神社」や「暁嵐石庭」もあります。

まずは、「瀧三柱神社」にお参り。

創建は、鎌倉時代の正応元年(1288)と伝えられ、佐伯藩初代藩主の毛利高政公との縁も深い神社とのことです。

手水舎にある右の鉢は、文政6年(1823)に作られたもの。

(篆書体で彫られた「奉寄進」の文字が読めます。)

断崖絶壁を背にした姿が素晴らしいです。

(石燈籠は花崗岩製で、正徳3年(1713)に作られたそうです。)

なお、「瀧三柱神社」、正式には(登記上は)「瀧神社」だそうです。

それでは、「暁嵐の滝」を見に行きましょう。

(100m奥。見所がギュッと集まっていますので、そんなに歩きません。)

瀧三柱神社を左手に見ながら、暁嵐川を渡ります。

すぐに暁嵐の滝が視界に入ってきます。

早朝、誰もいない暁嵐の滝。風情満点です。

(落差15m。)

滝をもう少し正面に見たいので、水面から出ている石に乗って、精一杯の正面での写真を。

(もう少し近付きたいですが、まだ水は冷たいので、これ以上は無理をせず。(笑))

種田山頭火が佐伯の地を訪れた時、義弟に送った便りに「佐伯地方は予期したよりもいいところでありました。」と書いています。その絵葉書の写真が暁嵐の滝。

(「暁嵐石庭」を鑑賞するための休憩所にて。)

暁嵐の滝は、日田出身の広瀬淡窓(江戸時代の儒学者・教育者・漢詩人)も絶賛したそうです。

滝を堪能しましたので、瀧三柱神社の周りをプチ散策。

暁嵐の滝には、六兵衛という村人がカッパたちと相撲を取り、負けたカッパたちに、滝の主の大ウナギと大ガニを退治させたという伝説があります。

(六兵衛がカッパたちに勝ったワンシーンの像。)

時刻は7時半頃。太陽がようやくはっきりと昇ってきました。

暁嵐公園の最後に「暁嵐石庭」を鑑賞します。

(石庭鑑賞用の休憩所。)

京都の龍安寺をイメージした「暁嵐石庭」。

(滝は見えませんが、断崖絶壁や樹々が借景となっていてなかなかの風情です。)

暁嵐公園の見所を楽しむことができて、朝から達成感があります。(笑)

 

それでは、佐伯エリアの内陸に入って行き、豊後大野、竹田へと旅を進めていきます。

海沿いの国道217号線に復帰した時、ちょうどいい感じの日の出になってきましたので、急遽、近くの「マリノポリス記念公園」の駐車場に飛び込みました。

(きれいな❝光の道❞を見ることができました。)

昨日訪れた「豊後二見ヶ浦」も再び見ることができました。

(よく見ると、写真左端奥の断崖に「かみうら天海展望台」のドームが見えます。(笑))

 

40分強、番匠川を遡りながら走って、本匠エリアの「大水車の郷」に到着。

昔、この地域では、豊富な水を利用して、脱穀などに数多くの水車が回っていたそうです。

この「本匠の大水車」が完成したのは平成5年(1995)。当時は日本一の大きさだったそうですが、現在は❝西日本最大級❞となりました。(宮崎県綾町の「綾の照葉大吊橋」のようですね。(笑))

(水車の直径は18.18m(6階建てのビルと同じ高さ)。樹齢70~100年の杉の木を使用。)

この橋を渡った所にある「水車茶屋なのはな」では「源流蕎麦」が名物だそうです。

(カッパとホタル。番匠川の源流に近い清流ってことですね。)

次は、本匠の大水車の近くにある「小半(おながら)鍾乳洞」を見学しようと思っていたのですが、入口付近の市道通行止めのため休業中とのこと。

その代わりということではないのですが、20分強走った所に、「日本一美しい鍾乳洞」と言われる「風連鍾乳洞」があるので、行ってみることに。

(駐車場にて。この建物が料金所、入口へのゲートになっています。)

風連鍾乳洞は、「風連洞窟」として国の天然記念物に指定されています。

(記念スタンプがあったので、押してみました。(笑))

入洞料を払ったら、ここで洞窟内のことをざっくり説明を受けて、出発です。

(全長500m、往復で約30分のルートだそうです。)

ゲートを出たら、この道を進んで行きます。

(静かでとてもいい雰囲気の道です。鍾乳洞の入口まではすぐ。)

見学のための入口の横には、大正15年(1926)に地元の青年団が鍾乳洞を発見した時の洞窟への進入口(探検口)があります。

(体一つが何とか入るような大きさ。ここに入って行こうという勇気がすごい。)

見学はこちらの入口から。

見所は、一番奥の「龍宮城」という大空間。最初は、人工道がしばらく続きます。

このあたりから、外気温よりも暖かさをはっきりと体感します。

(人工道は終わって、美しい鍾乳石が登場し始めます。)

「龍宮城」に到着です。

ちょっと暗いですが、少し上った所からの写真です。

(実際には、もっと空間の大きさを感じます。)

おそらく学術上の名前だと思いますが、形成の特徴によって、「ヘリクタイト」、「鍾乳帯」、「シャンデリア」などと呼ばれている鍾乳石たち。

(私には違いがよく分からないのですが。(笑))

一番目を引いたのが、この「競秀峰」という、洞内最大の石筍。

(比較対象がないので大きさが分かりませんが、巨大です。高さ10m、周囲16m。ここまで成長するのに推定100万年以上。)

「龍宮城」、時間があればずっと見ていられそう、見応え十分でした。

出口に戻って来ました。なぜかちょっとホッとします。

(訪れる人もいない、独り占めの鍾乳洞見学でした。)

「風連鍾乳洞」は、見学した通り、閉塞型(行き止まり型)の鍾乳洞で外気の侵入が少ないことから風化がなく、純白に近い光沢を放ち続けているそうです。実際に見学して、「日本一美しい鍾乳洞」と言われているのがよく分かりました。

 

いよいよ豊後大野エリアに入ります。

不思議なもので、訪れるスポットの傾向が、佐伯エリアとは大きく変化してきます。

最初は、「虹澗橋」(こうかんきょう)。

(もはや自然と一体となっている趣きです。)

虹澗橋は「谷を渡る虹のような橋」という意味で、江戸時代の後期、文政7年(1824)に完成しました。

当時としては日本最大の石橋で、臼杵藩の「三重の町」と臼杵城下を結ぶ街道の難所を克服するため、地元の豪商が資金を出し合って建造しました。

橋の上からの景観です。

(車もない時代、確かにここは難所だったかも。)

阿蘇溶結凝灰岩の切石を使用した虹澗橋は、堅牢かつ美しい石橋で、国の重要文化財に指定されています。

平成の世にも車道として使われていましたが、今は通行禁止となっています。

(人(車以外)は通るのはOKです。)

傷みが目立ってきたので、平成15年(2003)に「車輌の通行は永久に禁止」となりました。

(見学している間、訪れる人も通る車もない、鳥の鳴き声と川の流れの音だけのマイナースポットです。)

 

続いて、「道の駅みえ」に立ち寄ります。

(面白かったので写メしてみました。)

地元の農作物をはじめ、特産品を販売しています。

家庭菜園で芋類を育てたことがないので季節感は分かりませんが、さつま芋が一番出ていました。

都市部のスーパーでは見たことがないような、それはそれは大きなさつま芋が5、6本入って500円。見るからに美味しそうなので、自分用に一袋買いました。

(品種は「べにはるか」。)

「道の駅みえ」のもう一つの見所は、ここから見える絶景、「江内戸の景」(えないどのけい)です。

(少しだけズーム。パノラマも絶景、ズームしても絶景。とにかく素晴らしい景色です。)

「江内戸の景」は、先程の「虹澗橋」の建築材料にもなった阿蘇溶結凝灰岩を、大野川が長い歳月をかけて削り取ってできた河岸段丘と、その上に営まれてきた人々の暮らしの風景です。

 

次は、「菅尾(すがお)磨崖仏」です。

磨崖仏ですから「山道を登るんだろうなぁ。」と想像していましたが、やはり登ります。(笑)

(舗装されていて、ホッとしました。)

坂道を数分歩くと、最後に待っているのは、この急でロングな石段です。

(上り切った先が見えません、、、。)

鳥居のあたりでちょっと休憩して、上り切ると、目の前に磨崖仏が出現します。

臼杵の石仏のように屋根が整備されています。)

「菅尾磨崖仏」は、平安時代後期に作られた5体の磨崖仏で、約9万年前の阿蘇溶結凝灰岩に彫られています。国指定重要文化財。

(写真右端の石燈籠が上ってきた石段の終点。)

5体の磨崖仏ですが、写真の右フレーム外になってしまった「毘沙門天」、写真手前から「十一面観音」、「阿弥陀如来」、「薬師如来」、「千手観音」。

(毘沙門天はかなり傷んでいて、無意識に写真のフレームから外してしまったようです。)

薬師如来(左)と阿弥陀如来(右)をアップにしてみました。

正直これだけのクオリティの摩崖仏を見ることができるとは思っていませんでしたので、ちょっと驚きです。

お参りもさせていただき、転げ落ちないように石段を下り、下り坂の途中で駐車場の方向を撮ってみました。

(ここでも訪問者は私だけ。)

 

次もかなりのマイナースポット、「岩戸(いわど)の景観」です。

今回のベスト(?)3に入る細い道を勇気を出して進んで通り抜けると、大野川に奥岳川が合流する地点で一気に開けます、、、そして、この絶景!

(岩壁の下半分は阿蘇火山の3回目(12万年前)の巨大噴火、上半分が4回目(9万年前)の巨大噴火による火砕流の二層の火砕流でできているそうです。)

高さ50m、長さ500mの大絶壁「岩戸」に掘られた「百枝トンネル」と、そこに吸い込まれていくような「百枝鉄橋」。

撮り鉄のマニアが写真でも撮っているかなと思いましたが、誰もいません。ここを列車が走ると、こんな景色になるようです。

(ネットより拝借。)

「偶然列車が来るかな。」なんて期待しましたが、さすがに来ませんでした。(笑)

列車に乗っている人は、この景色を50m上から見ることになるので、それはそれは絶景でしょうね。

(鉄橋下で撮影。)

この「百枝鉄橋」、地上から階段が付いているのですが、特に立入禁止にもなっていなかったので、上ってみました。

(やはり列車は来ないですね。(笑))

ちなみに、「百枝トンネル」と「百枝鉄橋」は、JR九州の豊肥本線「豊後清川駅」と「三重町駅」の間に位置しているそうです。

 

次は、「岩戸の景観」からそこそこ近い、雪舟が水墨画に描いた「沈堕の滝」へ。

(駐車場には私のレンタカーだけ。)

駐車場にある東屋からも滝が見えますが、ここから散策路に下りて行くと、もっと眺望が開けます。

沈堕の滝は、明治42年(1909)、滝の上に堰を作り、下流の施設で発電が行われていました。その電力は、当時の大分・別府間の路面電車に供給されていたそうです。

大正12年(1923)、更に下流に「新沈堕発電所」が完成し役割を終え、今は、近代文化遺産に認定されている石造の沈堕発電所の遺構が残っています。

(中に入ることもできますが、誰もいないと、ちょっと不気味。)

こちらが「沈堕の滝」。

(ややズームしています。)

写真右側、枯れ草の向こうに、水が勢いよく落ちているのが見えますが、沈堕の滝は、大野川にかかる雄滝(高さ20m、幅100m)と、支流の平井川にかかる雌滝(高さ約18m、幅4m)からなっています。(正面が雄滝、右側が雌滝。)

雪舟の「鎮田瀑図」にも雄滝・雌滝が描かれています。

雄滝をアップにしてみると、流れ落ちる絶壁の少し向こうに堰が見えます。

(散策路は、ずっと奥まで続いていましたので、ひょっとしたら雄滝を間近に見ることができるのかも。)

駐車場に戻って来ました。水力発電で使われていた機械が展示されていました。

豊後大野エリアの滝と言えば、何と言っても「原尻の滝」が有名ですが、この「沈堕の滝」も超おススメです。雌滝をもっといい角度で眺望できる展望所もあるようですので、機会があれば再訪してもいいかなと思いました。

 

次は、アーチ式石橋の「轟橋」と「出会橋」です。

現存する石橋の数が日本一という大分県ですが、豊後大野市には、アーチ式石橋の径間の大きさが国内1位、2位という、国内を代表するの2つの石橋が隣接してあります。それが「轟橋」(径間32.1m)と「出会橋」(径間29.3m)です。

まずは、「轟橋」(とどろばし)を「出会橋」から眺望します。

「轟橋」は、昭和9年(1934)、祖母傾国定公園の傾山麓に広がる国有林から多量の木材を切り出すために、森林鉄道を通す橋として2連のアーチ式石橋として完成。 昭和30年(1955)にはこの鉄道は廃止され、轟橋は、現在、車道として使われています。

「轟橋」に車で移動して、「出会橋」を眺望。

「出会橋」は、大正11年(1922)、豊肥線「牧口駅」(現「豊後清川駅」)が開業したことをきっかけに、大正13年(1924)に作られました。

2つの石橋と、石橋が架かる峡谷、双方の美しさはなかなかのコラボですが、奥岳川に架かる2橋は、名所が鈴なりになっている大野川本流や国道502号線から少々離れているので、アプローチがちょっとたいへんです。

 

せっかくここまで来ましたので、もう少しだけ足を延ばして、奥岳川の更に上流、「滞迫峡」(たいさこきょう)に行ってみます。

滞迫峡に架かる「奥嶽橋」から峡谷を見てみます。

(「奥嶽橋」。たまたま杉の丸太を運送しているトラックが停車していました。)

奥嶽橋から見下ろした滞迫峡です。

(右の大絶壁、見事な柱状節理です。)

奥嶽橋の反対側から見下ろすと、整備された展望所がありましたので、車で下りて行くと、駐車場に滞迫峡への散策路の入口がありました。

河原に出ることができ、先程景色を眺めていた奥嶽橋を見上げることができます。

(奥嶽橋とダイナミックな柱状節理が見応えのある景観を作っています。)

絶壁の高さは70mになる所もあるそうです。

(上から見るよりも、やはり間近で見た方が迫力が段違いですね。)

奥岳川を随分と上流まで遡ってきました。ここからは北上して(戻って)行きます。

まずは、豊後大野エリアで屈指の知名度を誇る「原尻の滝」へ。

原尻の滝は、田園地帯に突如現れる珍しい滝として知られ、「日本の滝100選」にも選ばれています。

吊橋から滝までをワンショットで撮ってみました。

(向こう側には田園地帯が広がります。)

さっそく吊橋を渡ってみることに。

緒方川に架かる、その名も「滝見橋」。

(渡り始めたのは私一人なのですが、結構揺れます。ちょっとこわい。)

滝見橋の中央辺りが一番眺望が良さそうなので、ここから滝を観賞。

(少し水量が少ないでしょうか。)

のんびりと滝を見ながら過ごす公園のように整備されています。

(年配のご夫婦が滝を眺めている姿、とてもいい雰囲気です。)

「東洋のナイアガラ」と称される滝は日本に結構ありますが(鹿児島県伊佐市の「曽木の滝」など)、原尻の滝も「東洋のナイアガラ」と言われています。(笑)

(原尻の滝は幅120m、落差20m。この迫力の落水を間近に見ることができます。)

水流が滝に落ちる寸前に岩盤の上を滑る様子も、安全に見ることができるように足場が整備されています。

(水が滑るこの岩盤は、9万年前、阿蘇火山の大噴火による大火砕流が冷えて固まったものだそうです。)

この立っている所から田園地帯を見ると、大きな鳥居が緒方川にポツンと建っています。

(この鳥居は、「緒方三社」の1つ「原尻の二の宮社」の鳥居。他に「久土知の一の宮社」、「上自在の三の宮社」。)

時刻は13時過ぎ。原尻の滝の食事処「レストラン白滝」で昼食を。

地元の食材を使っているとのことで、「椎茸のはさみ焼定食」と迷いましたが、「とり天定食」にしました。

(お米は、地元の緒方米。)

揚げ立て、ジューシーで美味しかったです。ごちそうさまでした。

今回の旅でも地元米を買って帰ろうと思っていたところ、地元米のコーナーがありました。

(お目当ての「緒方米」の新米が出ているようです。)

緒方米は「レストラン白滝」でも使っているお米で、図らずも試食となりました。とても美味しかったので、3kgの新米を購入。

(食べるのが楽しみです。)

 

豊後大野エリアの訪問予定地もあと2ヶ所。

「原尻の滝」を出発して向かうのは、「蝙蝠(こうもり)の滝」。

今回の旅の中で、「この道に入って行くのかぁ?」と不安でいっぱいになる細い道第1位の道を通って、無事到着しました、「蝙蝠の滝展望所」。

(苦労して到着した甲斐あって、この絶景。私はおススメスポットだと思います。)

「蝙蝠の滝」について。明治になって、岡藩や臼杵藩といった藩の境界がなくなり、物資の輸送が活発になった時代、大野川を利用して、下流の犬飼から上流の竹田まで、舟で物資を輸送しようという計画が持ち上がり、明治7年(1874)から工事が始まりましたが、この「蝙蝠の滝」が最大の難所で、何と、滝を迂回するために岩盤を削って「舟路」(しゅうろ)を造り、更には落差を克服するために、石垣と木で大きな滑り台のような樋が造られ、大正時代に鉄道が開通するまで使われていたそうです。

(ズーム。円形に落ちている滝の❝右岸❞に「舟路」が掘られました。今は森の樹々が生い茂っているので、舟路跡が隠れてしまったようです。)

「蝙蝠の滝」は、大野川本流にある高さ10mの滝で、こうもりが翼を広げているように見えることが、その名の由来だそうです。

 

次は、「磨崖仏」を拝むことができる「普光寺」へ。

整備された駐車場は、「第1」・「第2」とありましたので、訪問客が多いのかも。

(今日は私だけでした。)

普光寺への最後のアプローチの両側はアジサイでいっぱい。別名「あじさい寺」と言われるほどのアジサイの名所でもあるようです。

(アジサイは今はシーズンオフで枯れ木状態。)

本堂。

(普光寺は、鎌倉時代創建と伝わる真言宗のお寺です。)

見所は磨崖仏です。

(磨崖仏が彫られた所まで道が付いていて、岸壁のお宮にお参りもできます。ここ全域が境内とのこと。)

この磨崖仏は、高さ8m~11m、国東半島の「熊野磨崖仏」とともに日本最大級の磨崖仏です。

(鎌倉時代の作と言われています。)

阿蘇火山の12万年前の大噴火による大火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の垂直大絶壁一面に火焔を描き、その下に大きな両眼をむき出し右手に剣を握り、左右に二童子(左:制多迦童子、右:矜羯羅(こんがら)童子)を従え、結跏趺坐(けっかふざ)した不動明王像が彫られています。

説明板には、不動明王のお顔が、長年の風雨にさらされ、優しい表情になってきた、と書かれています。そう言えば、微笑んでいるようにも見えます。

 

さぁ、いよいよ、今回の一人旅の最後の訪問エリア、竹田へ向かいます。

竹田エリアでは、「岡城址」に登城、絶景を堪能、最後に、国内屈指の炭酸泉の「長湯温泉」で旅の疲れを癒します。

岡城址への登城は有料ですので料金所で観覧料300円を払って、先日購入した「日本100名城に行こう」の公式スタンプ帳に記念スタンプを押します。

(このために持参しました。(笑))

岡城址の記念スタンプは、やはり、有名な石垣の景色でした。

登城のスタートは駐車場・料金所から数分歩いたここから。

この坂道は「大手門跡」に続いています。

(結構登る、、、息が上がります。)

大手門跡に着きました。

(この石垣に櫓が乗っていたことを想像すると、威容ですね。)

大手門を入ると、佐伯城址と同じく枡形になっていますが、佐伯城址よりもかなり浅いです。

岡城について。岡城の始まりは、文治元年(1185)、地元の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎え入れるために築城したと伝えられています。難攻不落と言われる岡城。戦国時代末期の天正14年(1586)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大軍が攻めてきましたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退したという歴史が残っています。当時の岡城には石垣は無く、土塁や空堀などを巡らせた山城でした。その後、文禄3年(1594)に岡城主となった中川秀成が、島津氏撃退でも証明された要害堅固な地形を土台とし、「土の城」から「総石垣造りの石の城」へ大改修を行い、今の岡城を形成しました。城の形が牛の寝ている姿に似ていたことから別名「臥牛城」。

大手門までは登りますが、ここからは平坦です。

(大野川と国道502号線の眺望。)

写真のフレーム外の左側に大きく広がる「西の丸跡」から右に大きく湾曲し張り出した❝向こう側❞の石垣を望みます。

そして、この有名な絶景は「三の丸跡」の石垣です。

ここで気付いたのですが、俳優の榎本孝明さんが、何かの撮影でしょうか、撮影スタッフ数人と歩いていました。(写メは撮らず。)

三の丸跡に入ると、「本丸跡」の石垣があります。

(そんなには高さはありません。)

本丸跡です。

(結構広いです。)

本丸跡に立って、三の丸跡、西の丸跡などの方向を望みます。

視線を左に振ると、先程も見た、大野川と国道502号線、その向こうの山々を大パノラマで望めます。

(天然の要害、難攻不落というのが分かります。)

「二の丸跡」に❝一段❞下りると、「滝廉太郎像」があります。

(岡城を歌った、ご存知「荒城の月」の作曲者です。)

滝廉太郎さんがどんなロケーションにいるかと言うと、断崖絶壁のような二の丸の石垣の端、結構ギリギリ。同じあたりに立つと、足がすくみます。

(一番奥の高い山々は阿蘇でしょうか。)

私はここで引き返しましたが、岡城址をぐるっと一周散策すると1時間半だそうです。

絶景と美しい石垣の岡城址、想像通りの見応えでした。

 

今回の旅も最終盤です。

長湯温泉に向かって車を走らせます。

(この温泉マークが見えたら、長湯温泉はもう間もなく。)

まずは、「道の駅ながゆ温泉」に駐車して、温泉街を軽く散策してみることに。

長湯温泉は日本有数の炭酸温泉。「飲んで効き、長湯して利く長湯のお湯は、心臓胃腸に血の薬」と温泉療養学の権威の松尾博士が言ったとか。

竹田市が発行している観光ガイドブック「たけたStyle」に大きく紹介されている「温泉療養文化館 御前湯」。

芹川の側から見る「御前湯」の建物がとても雰囲気がいいです。

(いいですねぇ。風情があります。)

種田山頭火は、ここも訪れています。

与謝野鉄幹・晶子夫婦も旅好きですねぇ、ここにも来ています。

「道の駅ながゆ温泉」や「御前湯」から続く温泉街、「大丸旅館」と「長生湯」が向かい合う通りを抜けた所にある、芹川に架かる橋から見た「ガニ湯」方向の景色です。

芹川の河原にある混浴露天風呂は、長湯温泉のシンボルの1つ「ガニ湯」。

(カニ(ガニ)の甲羅の形に見えます。)

湯は入っていませんでした。女性のみ水着着用可だそうですが、ここで温泉に入る度胸はないですね。(笑)

「ガニ湯」には人間の娘に恋をしたカニの伝説が残っています。

人間の娘に一目ぼれをしたカニ(ガニ)は人間になって娘を嫁にしたいと思っていた。そんなカニの思いを知った寺の僧が「寺の鐘を百聞けば人に生まれ変われる」と言い聞かせ、娘が湯あみに来た時に僧が鐘をつき、カニはそれを聞いていた。僧がふと娘に目をやると、娘のあまりの美しさに一目ぼれ。鐘を九十九までついたところで、僧は「娘は俺がもらう」と言って娘に近付いたとたん、空が曇って大雨となり、僧もカニも雷に打たれて死んでしまった。しばらくして川の水が引いたところ、川の中にカニの形をした大岩が現れ、無数の泡を伴った湯が湧き出た。以来、村人たちはこれを「ガニ湯」と呼ぶようになった。(説明板より。)

、、、ちょっと、この僧、どうなんでしょう。(笑)

「ガニ湯」前の旅館「天風庵」が「千と千尋」のテイストでした。

せっかくの長湯温泉ですので、温泉に浸かりたいと思います。

「ラムネ温泉館」で立ち寄り湯を。

歩いても行けるのですが、ちょっと距離があるのと、温泉を出たら車に乗って、気持ちよく帰路につくため、一旦駐車場に戻って、車で「ラムネ温泉館」に。

「ラムネ温泉館」(2005年8月開館)の外観です。

(東京大学名誉教授、建築家の藤森照信さんの建築。キャラクターデザインは南伸坊さん。みなさん、長湯温泉の大ファンだそうです。)

入口も面白くて、❝別世界❞に入って行く感覚になります。

入湯料500円のチケットを購入、貴重品をコインロッカー(100円、返却あり)に入れて、「男湯」(写真の一番奥の棟の左側)へ。

脱衣場から先はさすがに写メを撮るチャンスはありませんでしたので、言葉で説明です。

内湯と露天風呂になっていて、内湯は温かい炭酸水素塩泉(泉温:42℃、遊離炭酸:911ppm)、露天風呂は超ぬるい炭酸泉(ラムネ温泉)(泉温:32℃、遊離炭酸:1380ppm)。

遊離炭酸の濃度で分かる通り、❝泡付き❞がいいのは、ぬるい露天風呂にじっくりと浸かること。私は、露天風呂15分、内湯15分という感じで浸かりました。(ちょっと露天風呂はこの季節としてはぬる過ぎるかなぁ。)

温泉を出てから、庭で気になっていた❝2つ❞をチェックしてみます。

この❝犬の紳士❞の意味はよく分かりませんが、「オンリーワン」と台に彫られていました。

(長湯温泉はオンリーワン、だから犬ってことですかね。)

「ラムネ温泉 飲泉所」はかけ流し状態。

(飲んでみました。ぬるい無味の炭酸水でした。(笑))

「ラムネ温泉」の名前は、作家の大佛次郎さんが、昭和9年、長湯温泉を「これぞ、ラムネの湯だぜ」と世界に紹介したことに由来するそうです。

 

「ラムネ温泉」、旅の〆として最高でした。今日は15000歩。この2日間の合計は38000歩。これだけ歩いたのも一体何年ぶりか思い出せませんが、その疲れも不思議とリフレッシュされました。

帰路のルートはマップのナビ任せにしましたが、結局、大分道の湯布院ICから乗りました。19時半には帰宅。

 

大分県南部エリア一人旅、津久見→佐伯→豊後大野→竹田、と超盛りだくさんの旅でしたが、訪れたかったのに❝未踏❞だった地を巡って分かったのは、このエリアにも九州の他のエリアにも負けない、魅力いっぱいの歴史、自然、食などがあるということでした。

随分と長いブログ記事になってしまいましたが、読み返して、一人旅をもう一度楽しみたいと思います。

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