だいぶ遅くなりましたが、新しい年、2018年になりました。あけましておめでとうございます。
ただでさえ、のんびりと新年を迎えたうえで、さらに新年早々激しいぎっくり腰を発症してしまい、文字通りの「寝正月」を過ごしたため、新年の始動が大幅に遅れてしまいました。
新年の御挨拶をいただいた皆様へも、何の音沙汰もなく過ごしてしまい、大変失礼いたしました。
寝たきりの日々を過ごしたため、本だけは読むことが出来ました。多くは小説です。山本周五郎、三浦しをん、夏目漱石、藤原伊織・・・と言った何の脈絡もない「雑読」ですが、正月らしいと言えなくもありませんでした。
問題は、この中で「夏目漱石」です。
夏目漱石は、たぶん「日本最高の文豪」だと言われる存在なのだと思うのですが、正直言って、私にはその「すごさ」がわかりません。どこがいいのかわからないのです。同じようなことは、村上春樹や吉本隆明やビートルズについても言えます。世間で高い評価を受けるこれらの人について、私にはその「すごさ」がさっぱりわからないのです。
このようなことについて、私としてはとりあえず「好みの問題」だと思うようにしています。人それぞれ好みがあるのだから、多くの人が「とっても素晴らしい」と思うものについて、私があまりそう思わない、ということもありうるのではないか、というような「解釈」です。
今も基本的にはそのように考え(るようにし)ているのですが、なお、そのうえで次のような疑念も抱いています。・・・「私に夏目漱石等の良さがわかるだけの資質がないのが問題なのではないか?」
そう考えると、「何が足りないのか?」ということが問題になります。「芸術的感性」が足りないのだろうか、と思うと確かにそれは言えます。およそ即物的な人間で、芸術的な感性はないな、とすぐに納得できるところではあるのです。そして、それだけであればまだ諦めがつくのですが、その次にもう一つの「原因」が思い浮かびます。
それは、「教養の不足」です。人生の終盤期を迎えた今になって言うことでもないのですが、夏目漱石のことだけでなく、最近つくづく痛感するところです。
ですので、「今年の目標」は、今更ながらの「教養強化!」ということにしたいと思います。これは一生の課題で、成し遂げないままに死んでいくのでしょうが・・・。
「教養の不足」を感じるのは自分自身のことに限りません。昔の政治家というのは(そのころにはさんざん文句を言っていましたが)今の政治家に比べてもう少し豊かな教養を示していたように思えます。
このようになってしまう事の基礎には、マネー資本主義の「グローバル」展開、ということがあるのでしょう。「すぐに金儲けに役に立つもの」が尊重される社会において「教養」などというのは、邪魔にこそなれ役に立たないものだと考えられてしまうようです。
しかし、「危機」の時代においては、やはり「人類の知恵」「歴史の蓄積」が必要になります.今年はその力を実感できる年になれば、と期待します。
「教養の不足」は、わが業界においても深刻な問題です。「教養」と言うより「基礎学力」の問題と言った方がいいのかもしれません。全く問題外の愚策を真剣に論じ合うことを続けてきて、「実行」にまで手を付けてしまう姿は、まさに「基礎学力の不足」を示すものに他なりません。
そしてこの「基礎学力(教養)の不足」の問題というのは、実は「土地家屋調査士制度」という資格制度の根幹をめぐる問題でもあります。この「基礎学力(教養)の不足」の克服なしに、制度の発展はおろか存続さえもない、という問題です。
それは、「元来、土地家屋調査士に教養(基礎学力)を求めるものとはなっていない」ということが、土地家屋調査士という資格制度をつくった当初からあり、土地家屋調査士自身がそれをもってよしとする形で展開してきている、という「現実」があるからです。土地家屋調査士に求められてきたものは、きわめて「技術」的に手続きの円滑な進行を図ることであり、それは言わば「決められたことを黙々とこなしていくこと」であり、それによって一定の「待遇」が保障される、という形で「土地家屋調査士制度」の根幹が形成されてきたわけです。
このことは、資格試験のありかたに端的に示されています。一切の資格要件なしでの試験制度というのは、そのようなものとして資格制度が考えられている、ということなのだと思います。そして同様のことは司法書士についても言えるわけですが、司法書士においては、当初そのように設計されていたものを自分自身で克服しようとする努力をそれなりに行ってきた、と言えるように思えます。
それに対してわが業界は・・・、というのが問題であり、私自身と同様に今更ながらのようにして「基礎学力(教養)不足の克服」を課題にしなければならない、ということで、今年がそのような課題に取り組む年になることを期待したいと思います。
ただでさえ、のんびりと新年を迎えたうえで、さらに新年早々激しいぎっくり腰を発症してしまい、文字通りの「寝正月」を過ごしたため、新年の始動が大幅に遅れてしまいました。
新年の御挨拶をいただいた皆様へも、何の音沙汰もなく過ごしてしまい、大変失礼いたしました。
寝たきりの日々を過ごしたため、本だけは読むことが出来ました。多くは小説です。山本周五郎、三浦しをん、夏目漱石、藤原伊織・・・と言った何の脈絡もない「雑読」ですが、正月らしいと言えなくもありませんでした。
問題は、この中で「夏目漱石」です。
夏目漱石は、たぶん「日本最高の文豪」だと言われる存在なのだと思うのですが、正直言って、私にはその「すごさ」がわかりません。どこがいいのかわからないのです。同じようなことは、村上春樹や吉本隆明やビートルズについても言えます。世間で高い評価を受けるこれらの人について、私にはその「すごさ」がさっぱりわからないのです。
このようなことについて、私としてはとりあえず「好みの問題」だと思うようにしています。人それぞれ好みがあるのだから、多くの人が「とっても素晴らしい」と思うものについて、私があまりそう思わない、ということもありうるのではないか、というような「解釈」です。
今も基本的にはそのように考え(るようにし)ているのですが、なお、そのうえで次のような疑念も抱いています。・・・「私に夏目漱石等の良さがわかるだけの資質がないのが問題なのではないか?」
そう考えると、「何が足りないのか?」ということが問題になります。「芸術的感性」が足りないのだろうか、と思うと確かにそれは言えます。およそ即物的な人間で、芸術的な感性はないな、とすぐに納得できるところではあるのです。そして、それだけであればまだ諦めがつくのですが、その次にもう一つの「原因」が思い浮かびます。
それは、「教養の不足」です。人生の終盤期を迎えた今になって言うことでもないのですが、夏目漱石のことだけでなく、最近つくづく痛感するところです。
ですので、「今年の目標」は、今更ながらの「教養強化!」ということにしたいと思います。これは一生の課題で、成し遂げないままに死んでいくのでしょうが・・・。
「教養の不足」を感じるのは自分自身のことに限りません。昔の政治家というのは(そのころにはさんざん文句を言っていましたが)今の政治家に比べてもう少し豊かな教養を示していたように思えます。
このようになってしまう事の基礎には、マネー資本主義の「グローバル」展開、ということがあるのでしょう。「すぐに金儲けに役に立つもの」が尊重される社会において「教養」などというのは、邪魔にこそなれ役に立たないものだと考えられてしまうようです。
しかし、「危機」の時代においては、やはり「人類の知恵」「歴史の蓄積」が必要になります.今年はその力を実感できる年になれば、と期待します。
「教養の不足」は、わが業界においても深刻な問題です。「教養」と言うより「基礎学力」の問題と言った方がいいのかもしれません。全く問題外の愚策を真剣に論じ合うことを続けてきて、「実行」にまで手を付けてしまう姿は、まさに「基礎学力の不足」を示すものに他なりません。
そしてこの「基礎学力(教養)の不足」の問題というのは、実は「土地家屋調査士制度」という資格制度の根幹をめぐる問題でもあります。この「基礎学力(教養)の不足」の克服なしに、制度の発展はおろか存続さえもない、という問題です。
それは、「元来、土地家屋調査士に教養(基礎学力)を求めるものとはなっていない」ということが、土地家屋調査士という資格制度をつくった当初からあり、土地家屋調査士自身がそれをもってよしとする形で展開してきている、という「現実」があるからです。土地家屋調査士に求められてきたものは、きわめて「技術」的に手続きの円滑な進行を図ることであり、それは言わば「決められたことを黙々とこなしていくこと」であり、それによって一定の「待遇」が保障される、という形で「土地家屋調査士制度」の根幹が形成されてきたわけです。
このことは、資格試験のありかたに端的に示されています。一切の資格要件なしでの試験制度というのは、そのようなものとして資格制度が考えられている、ということなのだと思います。そして同様のことは司法書士についても言えるわけですが、司法書士においては、当初そのように設計されていたものを自分自身で克服しようとする努力をそれなりに行ってきた、と言えるように思えます。
それに対してわが業界は・・・、というのが問題であり、私自身と同様に今更ながらのようにして「基礎学力(教養)不足の克服」を課題にしなければならない、ということで、今年がそのような課題に取り組む年になることを期待したいと思います。