大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

連載④・・・「地租改正事業での筆界の誕生」

2017-06-02 08:38:30 | 日記
前にも書きましたが、大分会の境界鑑定委員会の作業として、大分における地租改正の経緯をたどる研究をしています。

これがなかなか面白く、近日中にある程度まとめるようにしていますが、この「連載」との関係で言うと、やはり実証的に考えても、一般に「筆界は地租改正の過程で画定された」とされているのはやはり違うのではないか、という思いを強く持つようになりました。
もしも「画定した」というのであれば、やはり独自の「画定行為」がなければなりません。具体的にある土地のある境界を「筆界として定める」ということが必要であるわけです。ところが、わが国の近代化の中での「筆界の誕生」は、そのような明確な「画定行為」のない、自然発生的なものとしてあった、のだと思えます。地租改正事業から土地台帳編成、不動産登記制度創設の15年以上の年月の中で、徐々に「ある」こととされ、その意味で「形成」「誕生」したものなのであり、いつかの時点で明確に「画定」された、というものではないわけです。

先にも述べたように、「地租改正事業の中での筆界の画定」ということについて、それなりの研究の上で言われているものを見ると、実は「いつ画定されたのか?」ということについては、イマイチ明らかではありません。「登記法(明治19年)、不動産登記法(明治32年)」までの随分と長い期間の中で考えざるを得ないものだとされています。そんなに長い期間の中で「画定」ということが行えるのか?という疑問を抱くべきなのだと思いますが、「明治初期に筆界は画定された」ということがドグマになってしまっていて、そこから疑う、ということがなされないままにやり過ごされてしまっているように思えます。
そのようなことの上で、もう一つには、「地租改正事業の中で筆界が画定された」とされていることから、やはり明治6年から14年の地租改正事業の本体事業の中で「筆界の画定」がなされたのだろう、と言わば素朴に考える傾向というのもあるように思えます。

そのような素朴な考え方をさせるものとして、たとえば次のような史料から「地租改正事業の実態」を考えて、「地租改正事業の中で筆界は画定された」と考える考え方があります。それは、。
「実地歩数ヲ定ルニハ先ツ村役員立会銘々持地ニ畝杭ヲ建置キ 然ル後ニ隣田畑持主共申合耕地ヘ臨ミ経界ヲ正シ 銘々限リ持地有ノ儘ノ形ヲ書キ 入歩出歩等見計ヒ屈曲ヲ平均シテ縦何間横何間ト間数ヲ量リ其間数ニ応シ坪詰イタシ 一筆毎右之通取調村役人ヘ差出シ役オイテハ右絵図ヲ以尚又実地ニ臨ミ其地并隣地持主再ヒ為る立会歩数ヲ改め 相違無之上ハ畝杭ヘ更正之反別ヲ認メ此絵図ヲ元ニシテ第五条ノ字限地図ヲ仕立可申事・・・」(千葉県の「地租改正ニ付人民心得書」明治6年10月4日「租税寮改正局日報」第44号に掲載)
という史料から、地租改正事業において、「持地ニ畝杭ヲ建置キ」ということがなされ、田畑の持ち主が申し合わせ「経界を正す」ことが行われたのだから、その位置として「筆界の画定」がなされた、ということなのだろう、と読み取る考え方です。このような、「畝杭」を建てるという明確な行為をもって、それまで「支配進退」の対象としてあった土地の境が国家の名のもとに明確にされたのだ、と考えるわけです。まさに、地租改正事業の「地押丈量」によって「筆界が画定された」と言えるのではないか、ということになります。

しかし、地租改正時の「丈量」についての現物資料(「量地絵図帳」「地引絵図帳」といった名称の地租改正時の丈量において作成した「絵図」)を見てみると次のようなものです。

この土地は、現地の状況としては次のようなものです。(なんか、画像が小さくしか表示されてないようですが・・・)

そして更正図では次のように描かれています(この地域は国調が行われており、国調地籍図もほぼ同じようなものです。)

更正図と「量地絵図」とを重ねてみると次のようになります。

あくまでも「畔際」で耕作可能な範囲しか「丈量」していないのであり、したがってこの時に「畝杭」を立てた位置というのはあくまでもこの図で赤線で表示した「畔際」の位置に過ぎません。今日で言う「筆界」の位置には立てていないわけですし、その前提としての「経界を正す」というのも、今日的な意味で使われる「境界」「筆界」を指しているわけだとは思えません。(それは、たとえば数枚ある田のうちのどれまでがAのものでどこからがBのものか?というような意味での「経界」であったり、あるいは逆にもっと細かく「畔際」の位置がどこに当たるのか、というようなことをめぐってのせめぎあいがあった、ととらえるべきなのだと思います。)
このようなものとしての地租改正事業の中での「地押丈量」が行われた、ということを、今日の感覚からする先入観やドグマからではなく、実際の歴史に即して見直す、ということが必要なのだと思います。

では、地租改正事業自体の中で「筆界の画定」がなされていないのだとしたら、「筆界」はいつ、どのようにして生まれたのか?ということが問題になります。だいぶ長くなったので、次回この問題を見るようにします。


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