「官僚制」をめぐる問題が、社会的に大きな問題になっています。私自身の今後の生き方、仕事への対し方、という点においても、とても重要な問題だと思っている問題です。
本書は、「帯」に「ウェーバーの官僚制論はいかに読み直されるべきか」とあるように、「行政学者ではなく、政治思想史を専門とするマックス・ウェーバー研究者である」著者が思想史的に「官僚制」を読み解き、解説してくれているものです。その方向は、同じく「帯」に「官僚制はなぜ擁護されなければならないか」とあるように、今日の「官僚制批判」の趨勢に対して「カリスマに抗する装置としての官僚制」の意義をも示す、という構図になっています。・・・と言っても、私の読後感としては、「官僚制擁護」がそれほど強いわけではなく、「官僚制批判」について、さまざまな「論理と心理」が、そこに集中されることによってもたらされる弊害、ということへの注意喚起が課題なのかと思えました。
それは、「『より多くのデモクラシーを』という方向性と。『より小さな政府を』という新自由主義の共闘による官僚制批判は、『正当性』を「めぐる争いに直面して、後者に絡め取られていく」という指摘として表現されています。
たしかに、「官僚制批判」が「官僚バッシング」になる社会の雰囲気は、「強いカリスマ」への憧憬を強める、という危険性があるものなのでしょう。
そのためには、「官僚バッシング」の「心理」が、きちんととらえ返されなければなりません。
この点について著者は、「『官僚内閣制』の問題性が、そのパフォーマンスの低下によって・・顕在化することになった」ことが基礎にある、としています。その「パフォーマンス」とは、官僚制が有効に機能していた時期には、一つには「『民意」・・からは隔絶された専門知によって制御されるべき」領域が確保されていて「官僚制」がそれを担ってきた、ということで、もう一つは、「右肩上がりの経済成長と言うパフォーマンス」の持続的維持です。経済成長が続く中にあっては、「少々の利権や癒着があっても、行政が産業全体の存続と収益向上に責任を持とうとする『護送船団方式』によってそれを上回るパフォーマンスが達成され、『民間』もその果実を享受できている間は、不満は顕在化しにくかった」のが、その前提が崩壊する中で不満が噴出してきた、というわけです。
そのような構造を踏まえつつ、官僚制について「それでも問題は問題」として、きっちりと見ていくことが必要なのでしょう。
「官僚制」をめぐる議論としては当たり前のことなのかもしれませんが、「形式的合理性」「実質的合理性」 という概念で問題がたてられているところに関心を持ちました。私たちの業務領域において「実質的審査権」が言われる、という、いわばおよそ「官僚制」的ではない課題が最初からある、ということに、現在の諸課題を解く契機があるのではないか、という気がしたからです。・・・あんまり関係ないですかねぇ?
・・・それはともかく、官僚制において求められ、実現される「形式的合理性」は、その初めの段階においては「実質的合理性」をも有するものとして形成されたものと言えるでしょう。ところが、さまざまな条件に変化が起きても、その変化に対応した「形式」を整えることができないところから、「実質」とかけ離れた「形式」だけが残り、それがクローズアップされることによって、非合理なものになっていってしまう、ということなのだと思います。
この危険性は、「登記制度」においても、同じように表れているのだと思います。私たちは、この「官」の業務領域に民間から関わる者として、これまでは「官」の「パフォーマンス」の相対的な高さから「官」に絡めとられることに自身の安定を求めてきたようなところがあるように思えるのですが、現在においては、「民間」にいるからこそ見えるものをしっかりと見て、「官」の限界を超えていく、という志向性を持つことが必要なのではないか、と思えます。