大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

西部邁の自死について

2018-02-19 21:53:34 | 日記
1月23日の本ブログにて、私は次のように書きました。
西邊邁氏については、私としては「嫌いな人ベスト(ワーストか?)100」に入るくらいに嫌いな人のですが、その死(に方)については(事情をよく知らないとはいえ)共感するところがあります。

これについて、しばらく音信のなかった畏友から「どういう意味?」と聞かれ、大した意味もなく書いたことを反省しながら、自分が何を思ったのかを明らかにしようともって、西部邁の著作を何冊か読んでみました。その全体的な感想はいずれ書くことにして、とりあえず「共感する」と書いたことについて、釈明と説明をしておきたいと思います。

そう思ったのは、たとえば「文芸春秋」誌の保坂正康・浜崎洋介対談で「自裁死・西部邁は精神の自立を貫いた」などという記事を読んだり、小林よしのり氏が「立派な自裁死」と言っている、ということを(ネット上の情報なのでどこまで真に受けていいのか疑問ではありつつ)聞いたりして、「それはちょっと違うんじゃないかな」と思ったからです。

その第一は、(これもまた私の嫌いな)吉本隆明が(「老いの幸福論」という吉本らしからぬ本を読んでみたら、その中で)「死」というのは「個人的」な事柄なのだ、と言っていたことに、とても納得させられた、ということがあります。「死」というのは、個人的なことなのであり、その「意味」などを他人がとやかく言うことではないのです。それが第一。

もう一つは、西部氏の「自裁死」についての言及が様々な形でなされていることです。その多くは、ごく個人的な問題として、自分自身としての死に方はどうあるべきかを考えている、というものとしてなされているのですが、中には次のように言われているものもあります。
「社会にとって、さらには家族にとってすら、自分が用済みになったら、おまけにスクラップたる自分の延命が社会や家族の邪魔になるとわかったら(事情が許すかぎりという条件はつくものの)自裁すべし、というのが私の二十年来の持論である。というのも、生命なんかは(どう考えても揺るがせにできないと思われる)徳義を実現するための手段にすぎないからだ。手段の価値しか持たぬ生命を目的の次元での至上価値にしてしまうと、徳義にたいする冒涜がすべて許されてしまう。その意味でのニヒリズムに人間精神が道を譲ることになる。生きることそれ自体のための横暴・野蛮・臆病・卑劣、そんなものをヒューマニズムの名で肯定する戦後日本を私は嫌い通してもきた。ヒューマニズムは人間が「生きながらにして錆びつく」のをよしとする似非の宗教と思われてならなかったのである。といったわけで、自裁にはニヒリズムの根を断つという偉大な効用があると私は考えつづけている。いわんや、スクラップ人間の虚無心などは根こそぎ否定されて然るべきものだ。」(生と死 その平凡たる非凡」2005)

自分自身の問題として、「社会にとって、さらには家族にとってすら、自分が用済みになったら、おまけにスクラップたる自分の延命が社会や家族の邪魔になるとわかったら自裁すべし」と思い定める、というのはいいと思いますし、それを実行する、というのも悪いことだとは全く思いません。
しかし、それを「一般化」してしまうのは違います。ましてや、(目的たる)「徳義」を実現しえない(手段としての)「生命」は断たれて然るべき、というように一般化するのは、全く違って、それこそ「根こそぎ否定されて然るべきもの」なのだと思います。とても危険な考え方です。

何冊かの本を読んだ上で西部氏の「自裁死」を見てみると、それは意思的な「自然死の拒否」ではなく「病院死の拒否」というべきものなのだと思います。しかも、西部氏がよく引く(福田恒存が死を前にして言ったという)「死というのは怖いものじゃない」という境地に至っていないだけのものなのだとも思えます。さらに言ってしまえば、「生きていく希望をなくした」上での、やむにやまれぬ(それ以上生きていくよりはまだましなものとしての)「死(の選択)」だった(その意味では多くの「自殺」と特に区別すべきではないものな)のではないか、とも思えます。
そのようなものとして、先の「文芸春秋」誌で保坂氏は「西部邁はそんな小物じゃない」、「西部さんの死は、この歴史(藤村操、芥川龍之介、三島由紀夫等の歴史)に連なる自裁」だ、というようなことを言っていますが、それは過大評価であり、誤ったものだと言うべ気なのだと思います。
肉体的に衰え、連れ合いに先立たれて、今後の希望をなくした老人が、今後子供たちに迷惑をかけるよりも、今自らの意思で自分の生涯に決着をつけた方がいい、と思い定めた、というのが、西部邁さんの「死」なのだと思います。その意味で、「意志薄弱な自分」にとっても「共感」できるものではあります。しかし、それはあくまでも「小物」における「死」の選択なのだと思うのであり、なんらかの「歴史的意義」をも持つものであるかのようにとらえるのは違う、と見定めておく必要があるのだと思います。

なお、本当にこれまでにないほどに一人の著作を読み通すものとして西部邁の本を読みました。そのうえで、概して「否定的評価」をするものですが、それなりにいろいろなことを考えさせてもらいましたので、近いうちにその辺を書くようにしたいと思います。

コメントを投稿