大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

必然としての「不祥事」

2013-01-13 11:33:47 | インポート

「手抜き除染」が問題になっています。これは「必然的」に引き起こされた「不祥事」だと思います。

そもそも「除染」が可能なものであるかのようにしていること自体が疑わしいことです。現実に起きてしまったことだから、また、今後原発を動かして行こうと思うから、「どうにかできる」ということを示したくてやっていることのように私には思えます。

「目的」設定の前提における問題です。

その上で、目的実現に向けた経路がはっきりしません。最終処分はおろか中間貯蔵も定まらない中、「とにかくやってます」という姿を示しているだけのように見えます。そしてその姿は、「巨額の経費をかけている」ことで示されているようです。「目的実現に向けた手段」における問題です。大手のゼネコンに発注して、二次、三次、四次、五次・・・・の下請へと引き継がれて行く中で、実際に作業にあたる人には、「危険手当」以下の日当しか渡らなくなる、というようなことが行われているとのことです。このような構造の中で「手抜き」が起きるのは「必然」だと言うべきでしょう。

「目的」設定は適切か?「目的」へ向かう経路は明確か?「手段」は適切か?・・・ということは、物事がある程度進んでしまった上でも、常に検証しなければならないものとしてある、ということをこの「不祥事」から私たちは学び取る必要があるでしょう。

この「手抜き除染」の問題と同様の問題は、「不祥事」に至るほどではなくずっと小さく、ずっと明示的でないものだとしても、私たちのまわりにもあるように思えます。考えてみましょう。今、私たちがやっていることは、本来「目的」だとされていることに向かって、どれほど有効なものとしてあるのか?ということを。

たとえば、「認定調査士」制度はどうでしょう? あるいは、もう少し大きな問題で、「筆界認定」のあり方はどうなのでしょう?・・・「目的」設定は適切か?「目的」へ向かう経路は明確か?「手段」は適切か?・・・という視点でもう一度考え直す必要があるように思えます。そうでないと、明示的な「不祥事」には至らないまでも、大きな「無駄」を生み出すことになってしまうでしょうし、そのことは、ひいては制度そのものの存立を危うくして行ってしまうように思えるのです。

明示的に現れる「不祥事」というのは「氷山の一角」、あるいは「他山の石」です。同様の問題はないのか、反省的に考える必要があるのです。