「ヨハネ福音書の謎」(平野耕一著:プリスム社)
共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカとは際立った違いをみせる
ヨハネ福音書については膨大な研究と神学的歴史的解釈がなされている。
平野師はその著書において、幕屋にそった主イエスの生涯を描いているのだと
述べる。ヨハネが弟子の誰よりも長く主の生涯を、霊の目で回想し、そして
聖霊によって導かれつつ書き残したのだと述べている。
それはくすしくも、祭司が神との交わりを求めて、幕屋(神殿)に入り大庭で
小羊の捧げものによる、贖いを受け、菁銅の洗盤の水で清められ、聖所に進み
供えのパンを食し、黄金の燭台の光の中で香の壇で祈りをささげる道程と同じ
順番に主の歩みが描かれているというのである。
確かに、1:36「見よ、神の小羊」、4章は「永遠の水」について、6章は「いのちのパン」
9章は盲人の開眼の軌跡と「世の光」に言及される。
そして主の体が裂かれると同時に神殿の垂れ幕が裂け(共観福音書)、至聖所への
道が開かれた。
使徒行伝7章には、青年ステパノがその若い生涯すべてをかけて語った唯一の説教
が残されている。その中で彼は「このモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの
手によって、支配者または解放者としてお遣わしになった。」(35節)
「あなたがたは御使いによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありま
せん。」(55節)と語り、栄光の主を仰ぎつつ天に召された。
これは旧約時代が垂れ幕の外側、天使の下位にあったことを示している。
天使といえども被造物である。
創造主が人となられ、罪の呪いを自ら負われたことによって、創造主なる聖霊が私たちの
霊に注がれたのである。
主イエスの生涯を通して、創造主と人間は一つに結ばれるのである。
聖霊が私達と共に「父なる神様」「御子なるイエス様」と永遠のまじわりに招いてくださる。
人間に生まれ、人間の性質と能力がなければ本当の意味で人間を理解できない。
犬が人を理解しようとしても、それは犬の遺伝子の範囲内でしかできないように、
私達が神を知ろうとしても、人間の想像の中で想定された範囲でしかとらえられない。
多くの神々は実際は天使たちであることが聖書で明らかにされている。
2010年前にこの世に来られた真の神、真の人(幕屋:ヨハネ1の14)が創造主を現わ
され、聖霊によってその永遠の交わりといのちを与えてくださる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます