ワイコフ、マーティン・ニーヴィアス Wycoff, Martin Nevius (1850.4.10- 1911.1.27)
アメリカのニュージャージー州ミドルブッシュ生まれ。
1872年ラトガース大学卒、7月24来日。グリフィスの後継者として
直ちに福井藩明新館の教授として就任2年間教える。
74年月新潟外語学校へ転任、ここでも2年間教え。76年東京大学予備門に転任、
任期満了に伴い翌年帰国。
81年横浜先志学校長就任のため来日。83年同校はJ.C バラの築地大学校と合併して
東京一致英和学校となり、さらに明治学院となるが、その教育に専念、物理化学、英文学
、英語学などを担当した。
福祉事業にも尽力、目黒の慰廃園、東村山のライ病院へも慰問伝道をした。
基督教書類会社、基督教教育会の理事、会計もつとめる。
東京に病没。墓は白金瑞聖寺にある。
著書『フルベッキ小伝』
戸川残花の教友でもあった。
(キリスト教人名辞典・基督教団出版・参照)
①Rev.Guido Fridolin Verbeck,D.D by Wyckoff 「wyckoff.pdf」をダウンロード
②日本語訳
Rev.Guido.Fridolin Verbeck,D.D.
M..N ワイコフ教授
BY PROF.M.N.WYCKOFF,SC.D.
親愛なる友のみなさん、このたびフルベッキ博士についてお話しすることを光栄に存じます。
彼を知っていた人々の思い出を呼び起こし、そして恐らく彼についてただ知り合いの人々の
興味にいくらか加えたいと思います。
長い間、わたし達ミッションの誇りであり先輩であった友のこと適切に語るには私自身の足りなさを覚える者です。
わたしより長く彼を知っている他の方々がいますが、それぞれにおまかせするとして、日本で半世紀近くいたわけでもない者ですが、今日、彼について語るのもふさわしいことかもしれません。
わたしは37年前にフルベッキ博士に会いました、それはわたしが日本に来て最初の数日であり彼の家のゲストとしてでありました。
彼は既に名を成しており、この国で最も影響力のある外人でありましたがその振る舞いには
そのようなことを自覚しているようなものはなにもありませんでした。
あの時から、残る25年間の中で与えられた、親交と交流の親密さによって、その友情が養われ、強められたことは喜びでした。
ギド-・フリドリン・フルベッキは1830年1月23日オランダのユトレヒト地方のザイストに生まれました。
彼の父は、ギド-の誕生の頃とその後何年もザイストの町長でした。
彼ははじめ町のモラヴィアンアカデミーで教育を受け、後にユトレヒトの工業専門学校での私的な学びをされました。
その誕生の地とフルベッキ博士の早期の生活は、主がその奉仕に用いるためための人々に、いかに準備をあたえるかということの詳細で明瞭なお手本になりました。
彼の両親はルーテル派でありましが、彼らはある理由でモラヴィアン教会に出席し、その子供をモラヴィアンの学校に送りました。
それは疑いなく宣教への召しを聞くために備えられていたことと関連していて、その召しの声はアメリカにおいて、オランダ生まれだということでやってきたのです。
わたしはしばしば、彼が昔のモラヴィアンスクールにいたときのこと、そして他の人に述べていたようにその影響について語るのを聞きました。
「真の宣教精神とは何であるかを、私は若いときに吸収しそして生涯持ち続けた。わたしは宣教師の会合で宣教報告を聞いたとき受けた深い印象を生き生きと思い起こすことができる、特に中国の使徒、ギュツラフ(Gutzlaff)からのものを。」と。
モラヴィアンスクールで受けた教育もまた、彼がやがて日本でしなけらばならない困難で多様な仕事を遂行するための適応力と能力を与える上で最善のものでありました。
その教育で大変重要な分野はドイツ語、フランス語、英語、そしてオランダ語の学びであり、それぞれの言語はその国の母国語を話す人々によって教えられていました。
このようにして少年ギドーはそれらの原語をほぼ同等に話し、書くことができるようになったのです。日本における最初の15年間の生活において、フルベッキ博士の働きの多くはこの4ヶ国語の知識に依存し、そのすべてが時として、直接彼の仕事に結びついていました。
彼の母国語(4母国語というべきであるがあえて一つの言葉というならば)オランダ語は欠かすことのできないものであり、初期、長崎の時代、オランダ語を知っている知識人やオランダ語で医療教育を受けた当時最も進歩的であった医師たちとの交際に役立ったのです。
日本政府における後期の公務では、彼の普通の働きの大部分は重要なドイツ語、フランス語、英語の本を日本語に翻訳することであり、このために、少年の時の語学訓練が必要不可欠な教育であったのです。
彼が誕生した年、1830年はヨーロッパで最初の鉄道建設で沸き、機械技術における新時代の始まりということで注目されました。
数年後、少年ギドーにとって、将来の職を決めなければならない時がきたとき、家族会が開かれ、エンジニアとなるよう訓練を受けるべきであると全員が一致しました。
学びを終えて後、間もない1852年、彼はアメリカに渡り、3年間ウィスコン州のグリーンベイで、1年間アーカンサスでその職に着きました。
けでども彼は満足できず、福音を語るという召しを感じ、1856年ニューヨークのアーバンの
神学校に入学し、1859年その学校を卒業しました。
まさにその時、わたし達の教会の外国宣教ボードが日本での宣教を計画し、要請されました。
なぜなら、オランダと日本との長い交流がわれわれダッチリフォームド(オランダ改革派)の宣教師にとって、特別な機会を開くであろうと考えられたからです。
S・R ブラウン博士は既に志願しており、受け入れられていました、宣教師のうち一人はオランダ生まれでオランダ語に堪能なものであることが重要ではないかと考えられました。
その時、われわれ自身の神学校にはそれに適する人物がいなかったので、他のところに照会
がなされ、アーバンの卒業クラスにフルベッキ氏が見出されたのであります。
彼は即座に、日本へのわが教会の宣教師になる招聘を受け入れました。
彼はカユガのプレスビテリアンによって卒業按手をうけ、翌日カユガの同期生に移されました。
「一晩でプレスビテリアン牧師」としてし知られるようになった訳です。
1859年4月、フィラデルフィアのマリアマニオン嬢と結婚し、5月7日、ニューヨークを出航
11月7日、ニューヨークを出航して、ちょうど6ヵ月後に長崎に着きました。
フルベッキ博士が長崎の地に踏み出したその日以来、交通の機能においても、日本自体の情況においても偉大な変革がなされ始めていました。
当時、今と同様、新たな宣教師の仕事は言葉の学びでした、しかしそれは大変困難な情況でなされました。1883年このことについてフルベッキ博士は語っています。
「語る必要もないかもしれないが当初は、言葉の学びは現在とは全く違っていた。
それは今日の学生が与えらている多くの助けやガイドがないことから、ほとんどの働きは調査と発掘でありました。」
今もまた、直接宣教の働きをすることでその機会を見つけることは難しくないです。
真の困難は新しい宣教師がそのことで多くを費やしすぎるすこと、言葉の学びが本務を損なうことのないように守ると言うことです。
しかし、その頃は宣教師は疑われ、監視されており、最初の努力はほとんど語学研修に費やされたのでした。
1883年大阪会議ために準備されたプロテスタント宣教史において、フルベッキ博士はヘンリースタウト師あて前に書いた次の手紙を引用しています。
「われわれは、人々が宗教的な事柄には触れたがらないことに気づきました。そのような話題が日本人のいるところで提出されると、彼の手はほとんど無意識のうちにそののどにあてられてそんな話題がどんなに危険なものであるかをしめすのです。
もしそのような情況で、二人以上の日本人がその場にいれば、人々の用心深さがより顕著になるでしょう。というのはあなたが覚えているように人との間の信頼関係は,おもに、監視密告
といういまわしいシステムのためにほとんどないということです。そのことはわたし達が到着したときも、その後数年たってからも蔓延していました。
わたしたたちが適切な働きを望むむならば、その前に二つのことが成し遂げられなければならないことは明白です。それは人々の広い信頼を得ることと日本語を習熟しなければならないということです。最初の件ですが、知識人や疑い深い人々はわたし達が人々を「神の国」への忠誠から堕落させ、その道徳を腐敗させてしまうためやってきたと考えていたからです。
このようなひどい誤解を彼らの心から取り除くため、かわらない親切さと寛大さによって、日本人に役に立つことのためだけにきたということを示す努力をしなければなりませんでした。友人として、仕事上や義務上、或いは他のためのいかなる出会いのなかでもそうでした。
これがクリスチャンの誠意ある義務です。
成功的仕事のため実質的に不可欠な条件は言葉の習得でしたが、さまざまな理由で、好ましい情況ではなく、仕事ははかどりませんでした。」
1872年にいたる宣教の結果の総括で次のように書いています。
「プロテスタントの宣教師は、全体的に人々の信頼と尊敬を勝ち取った。人々の心が開放されたこと、彼らの偏見が取り去られていること、そして過度の警戒心が、外人との交流を望む心に変えられたことは非宣教的要素として加えられた実であった。
しかし人々の信頼を得たことは神の恵みのもとに、忍耐深い働きと、クリスチャンの性格と行動
そして宣教師達自身の教えの結果であった。
広範囲に、政府が人々の間で、プロテスタントの宣教師達が町や国に行ったことを評価して
後に信頼と自由の賞賛に言及したことも事実であった。」
人々や特に政府の信頼を得ることにおいて、それは彼が初期の真実な宣教師達を信じたことでもあるが、彼自身が誰よりも貢献しました。
われわれは、すべての官僚たちのなかに、彼に対する信頼がいかに深いものであったか恐らく知ることはないでしょう。彼らは彼がその代表であることを決して忘れなかった宗教にたいしてもゆるぎない信頼をももたずにおれませんでした。
彼の葬儀の日に、知的な日本のクリスチャン信徒が次のように言いました。
「今日われわれが享受している宗教的自由の恩恵は彼にのみ負っているといえます。」
クリスチャンへの迫害がやんだのは彼の影響を通してであると言うことは明らかです。
1872年までも、キリスト教に対するあからさまな敵意が存在し、「外部の野蛮人の追放が野心的な愛国者のお気に入りの主題」でありました。
このことについて彼は次のように書きました。「このような苦い感情はおもに上流もしくは官僚クラスの間にあるものであることは留意されなければなりません。町中や田舎の普通の人々はめったにこのような敵意はみせません。中流や下流の人々は嫌悪よりも恐れを持ってキリスト教をみています。」
彼を取り囲む困難性にもかかわらず、フルベッキ博士は到着後すぐに、聖句のコピー、マーチンのキリスト教白書や中国語の宗教書を配布し始めました。それは教育を受けた日本人によって読まれるためのもので長崎での10年の滞在期間に多くのものが並べられました。
老人の医師がいつもやってきて、夜のニコデモのように国の方々の友のため本を求め、話し合いました。あるとき、肥後地方から数人の僧侶やってきて、フルベッキ博士の手元にない本を求めました。4ケースの本が中国から送られてくることを知って、彼らはすべてを求める契約をしました。そこでかれはすぐに新たな注文を送らなければなりませんでした。
恐らく、これらの本の多くはおもに、キリスト教に反対するために学ばれていたのですが、購入者の動機はどのようであれ、多くの種が広く播かれたのです。
初めのころ、肥後から年老いた僧侶が彼を訪ね、自分自身はキリスト教を学ぶには年をとりすぎているが三人の生徒を教えていただけないかと求めました。
約3年間、これらの若い僧侶は学び続け、その得たところを老いた僧侶に報告しまた。
感謝を表すべく、しばしばやってくる彼に、あるとき、フルベッキ博士は言いました。
「あなたは若い方々からキリスト教について多くを聞き、よく理解しましたね。
あなたはいまやそれを受け入れるかどうか決断すべきではないでしょうか。」と。
すぐにその老人はおちつかなくなり、自分は多くの宗教を学びその長所が理解できないでいるので決心できかねます。しかし若い者達は疑いなく決断できるでしょうと言いました。
このような個人的な申し出がなされた後、彼は再び訪れることはありませんでした。
フルベッキ博士が長崎に着いて約2年後、二人の若者が英語の聖書を学ぶため訪れ、
このことは後年、日本政府との重要な関わりの小さな始まりとなりました。
約1年間の学びの後、彼らは大変うれしそうな様子でやってきて、教えに感謝して二匹の黒い子豚を持参してきました。
彼らは政府の試験で、あらゆる競争相手に勝る最優秀賞を受けたと語りました。
この成功が長崎に開校することになっていた英語学校においてフルベッキ博士の働きを役所が求めるきっかけをつくったのです。
最初、彼は辞退しましたが、強く要請されましたので外国ミッションボードの許可を条件に彼らの要望を受諾しました。
許可は降り、14年にわたり、彼は政府の公務に、ボードとの関係は結んだまま、自給の形で従事することになりました。
南日本の最初のプロテスタントのクリスチャンとして知られている村田、若狭の守を通して、フルベッキ博士は肥前地方の首都佐賀でよく知られるようになり、藩士たちの訪問をよく受けるようになりました。
維新直前の数年間、フルベッキ博士は薩摩、長州、土佐や他の地方の藩士のおびただしい訪問を受けました、かれらは絶えず、長崎を経由して旅をしており、1868年に実現する出来事についてお互いに議論していたのでした。
ほとんどのものは以前外人に出会ったことはありませんでしたが彼らの中に、小松、西郷兄弟、副島やほかの人々のようにこの重大な時期に著名になった者たちが名を連ねていました。
1866年肥前の大名が長崎に学校を開き、フルベッキ博士はここと政府の学校と両方で日替わりで教えるように任命されました。
この肥前の学校の生徒の中に現在の岩倉侯と彼の兄弟がいました。
将軍家の崩壊と帝国の力による維新もその長崎の学校をあまり混乱させなかったし、他の側への政府の変換がそのクラスを一日たりとも休ませることはありませんでした。
1869年3月、フルベッキ博士は東京に移り、4年間開成所に関係し、そこが現在の帝国大学に成長しました。
彼はその学校の外国部門の教師や教育全般の責任者であり、政府と外国人教師のすべての
関係の仲介者でした。
このすべての機構を充分に動かし続ける責任だけでなく、(それは容易なことでなく、4カ国からなる、多くの外国人がおり、ほとんどは巷から採用された専門外の教師達でした)
彼はいつも政府の高官から呼び出されたり、外交に関するすべての事柄の説明やアドバイスのために首相から出頭させられていました。
事実、フルベッキ博士の死後、二三週間してグリフィス博士は次のようにわたしに書いてきました。「彼は新たな政府に対して後に彼らが集めたアドヴァイザーの偉大な外交団と言う立場にあった。」
これら多様な要求に直面するために、彼は夕刻は、かなりの読書と学びに費やしました。
彼はわたしにかつて自分は筆不精であるがそれは、政府の仕事の年月、読書とその読んだことを他の人に口頭で伝えてあげるために非常に忙しくて、時間も書く暇もほとんどないからだと
語っていました。彼の読書習慣について、長男のウィリアム・フルベッキ大佐は「わたしの父は
読んだすべてを記憶すると言うすばらしい才能を備えた多読家でした。何年も前に読んだ本を
調べるに際し、探しているページを正確に、開き、そのページの箇所さえも知っていました。
かれは記憶術においてアイディアを関連付ける偉大な信徒であり、余白に注意深く記すやりかたが彼の多量な情報をシステム化し記憶させる助けになりました。」と述べています。
1873年、開成所との関わりから身を引き、はじめて太政官とそして上院(元老院)と貴族の学校に従事しました。太政官は、今では数局に分かれているほとんどの業務を形成しています。
そこでも上院でも彼の主な業務は翻訳でした、その時、彼の少年時代の多国語の習得が役立ったのでした。メッサース、加藤、細川、箕作とほかの人々の協力の下に翻訳されたもので
もっとも重要なものは「ナポレオン法典」、「ブルンチの国法汎論(Buntschli’sStaatsrecht)」、「森林法」、「ヨーロッパ諸国の憲法」、「ローマ法学説集・2千のローマ法格言(TowThousand Legal Maxims With comments)」です。
公務以外にも、彼は政府の要人たちに、教育、宗教の自由、その他の論題についての短い覚書(brief memorial)を送る機会がありました。この時代、彼の忠告や影響は政府によって、重要なものであると受け取られていました。
ここに彼自身、政府に対して最も価値ある業務とみなす一つの請願書(memorial)は、1872年岩倉侯のもとで使節団を送り出したことです。
この派遣(Embassy)は彼が提案した請願の結果であり、それは、はじめはためらっていたが後に、日本が飛躍する上に最も重要なものであったと考えるようになったものとして岩倉侯によって確認されたものです。
フルベッキ博士が亡くなられて、ある日、日本通信の編集者が次のように記しました。
「不思議なことに、フルベッキ博士が亡くなるその夜、現首相と大隈伯は、その方がもう数時間のいのちとは知らずに、お互いに、維新のときに彼によって勧められて書かれた提案について語り合っていた、それは日本が長い間顧みなかった、文明の学びのためのヨーロッパとアメリカへの官民の派遣、日本における自由思想の拡大に、おそらくもっとも貢献したものであった。」
彼の政府の公務の間中、フルベッ博士は、機会のあるとき、直接に宣教の働きをしました、この時期の後半時には毎日曜日、少なくとも一度、しばしば二度或いはそれ以上、説教をされていました。
政府には充分な専門家があたえられるようになったので、彼の公務は以前ほど重要ではなくなり、直接の宣教の門が開かれたと感じました、宣教の業に専心することが献身の義務であったのです。
1879年、彼のミッションの活動メンバーとして復帰しました。
この頃、ヘボン博士夫人、ブラウン、グリーン、日本人の同労者たちによって、新約聖書の翻訳がほとんど完成されつつありました、しかしフルベッキ博士は間もなく、校正委員のメンバーに選任され新約聖書の大部分の校正に関わることになり、後に旧約のすべてにも関わりました。
旧約聖書の翻訳の仕事はすべて聖書翻訳の恒久委員会の後援のもとになされました。
全体の校正のほかに、非常に喜びとするフルベッキ博士の特別な仕事は松山師と共になされた詩篇の翻訳でした。この仕事は、数年間の働きを表す一文のなかで語られたが、それは決してこれらの数年になされたすべてではありませんでした。
彼は聖書翻訳がおもな働きとみなしていたが、このほかにトラクト協会委員会の出版に関する
校正や説教と講義にも多くの時間をさいていました。
聖書翻訳完成の後、彼は明治学院神学部で約10年間、ほとんど継続して教えました、しかし彼はこの働きを喜ばず、他に代わりがない場合にのみ教えました。
彼が最も喜び、彼自身が一番ふさわしい働きと考えたのは説教と講義でした。
彼はこの種のもっとも賞賛に値する働きをした、スピーカーとしての素養とそして訓練の賜物
によって、また日本語のすばらしい習得によって。
後半期、彼は東京や各地から呼ばれました。東京では一週間平均少なくとも二度説教し、ほとんど頻繁に講義をし、国のいろんなところから、また彼のミッション以外のところから招きがないことはありませんでした、また数週間にわたるツアーも要望されました。
これは彼が特に喜んだ働きで、一日に二度三度の説教をして、来る日もあくる日も奉仕の合間に旅をしながら、ある場所から他の場所へと巡りまわるときほど幸いなことはありませんでした。
彼の日本語を話す能力については、しばしば語られているので、わたしがここの聴衆のみなさんに特に話す必要はありません。
彼のすばらしく卓越したスピーチの習熟について、彼の死の約一年前に、古い官僚の友を一緒に訪ねた時の印象があります。
その紳士は留守でしたから、短い伝言を残す必要に迫られました。
わたしはフルベッキ博士の講演も会話もよく耳にしていました、しかしあのときほど、彼の日本語とわれわれのそれとの違いを印象づけられたことはありません。
それは普通の伝言であり、その話をわたしも容易に語り、また理解し得るものでしたが、彼が
話したようにすることは、わたしにはとてもできませんでした。
数年前、その当時アメリカにいた日本人がニューヨークトリビューンに「日本語を良く話せる外国の宣教師は三人だけだ」と書きました。
わたしがそのことについて聞いたコメントでは、その三人のうちの一人はフルベッキ博士に違いないがあとの二人についてはわからないということでした。
日本政府によってフルベッキ博士の功績が評価されていたことは、1877年勲三等旭日賞を賜ったこと、1891年、特別なパスポートである、彼と家族が臣民と全く同じような方法で、帝国の
どこにでも旅をしたり、滞在、或いは居住する権利を持つ特別なパスポートを賜ったことからも
明らかなことです。
彼の死に、際してもまた、政府の公務から何年もまえに遠ざかっていたにもかかわらず、彼の遺体を墓地に運ぶとき兵士の一団が護衛につけられたこと、多くの官僚や、陛下である天皇が哀悼の意を表して500円を贈与したことからも分かります。
しかし、公の関わりから離れて、愛する兄弟についてもう少し話さなければなりません。
彼並はずれた能力やまったき信頼性は、彼が付き合わなければならなかった多くの疑い深い人々によっても信頼され、明らかに証言されたところであるが、このことと共に、謙遜さ、優しさ
や愛に満ちた友でありました。
多くは彼の名声のゆえに、知り合いになることを願うようでしたが、彼を知るすべての人は、優れた教育家であり宣教師であったよりも親切な心と気さくな人であったっと思っていることを確信します。
彼をよく知っている者にとって、彼はその名声以上に偉大でありました。
彼は非常に謙遜な人物で、それは決して甘くない自己評価からと言うのでなく、自己に関する
言及を避けられるときは、いつもまったく述べなかったということにその謙遜が現れました。
彼の仕事は過去にはなかったように忠実でよいものであったことは知っていましたが
ただそれらは彼がなさなければならなかった義務ゆえになしたのだと考えていました。
われわれは彼が自分について、その業績についてもっと多くを語ってくれたらと願いましたが、
彼はかつて、コッブ博士に、長い伝道旅行に言及して「歴史を書くよりも造ることを」と書いております、わたしたちはこの僕が偉大な歴史を造ることを許されたということを神に感謝します。
1874年、ある日、横浜の由緒ある外国語の本屋にいました、そのときフルベッキ博士が、本を求めにやってきました。何かの理由で、多分良く見えなかったからだと思いますが、近くにいた一人の青年に、日本紙幣をもって、幾らであるかと尋ねました。
その青年は彼に語り、一週間か十日間の観光やショッピングで得た知識で続けてほかのことも語りました、フルベッキ博士はみるからに非常に興味深げに耳を傾けていました。
そのすぐ後、店主とわたしは、日本についてべらべらお話ししてあげたその友好的な紳士の名前を知ったその青年の驚きを心ゆくまで楽しみました。
彼は、他人の意見や感情に対する態度や与えることにおいて寛大な人物でした。
重要な真理や原則が危うくされたときは、彼は妥協しませんでした、しかし、意見の相違の余地があるときは、多数の声に喜んで譲りました。
彼の施しについては、彼は寛大な布施者であったと言うことのほかわかりません、というのは
彼は右の手でしたことを、左の手に告げなかったからです。
彼が与える者であったことは受け取られたギフトによって知られています、彼が隠すことができなかったその場にいたことがありました。
私が彼の家に立ち寄ったとき、職を失い、なにも得ることができなくなった青年と彼がドアのところで話し合っているのをみました。
寒い日で、その若者は一枚のコートを持っているだけでした。
私は家に入り、すぐにフルベッキ博士がコートなしに入ってきて、事情を説明して、「彼は薄着だったので、私の古いコートを処分する機会を与えてくれた」ということでした。
彼は愛すべき人でした。
そのことはすべての友が知っていました、しかし彼の深い愛の心を良く知っていたのは家族でした。
彼が子供たちと共にいた当時、私たちは近い隣人でした、そしてあの家庭の暖かい家族生活に感銘しました。
それでも愛すべき父は、多くの人よりも彼の家族にとってそうであるが、十年以上にわたって
長女を除いては、家族から離れて過ごしながらも、喜んでその責務を果たし続けました。
しかし、彼はいつも心にある不在の者達のことを話すことを喜びましたが不平を聞いたことは誰もありませんでした。私たちにも興味深く聞いていましたが。
私は父の死後一二週間して、書いた息子のフルベッキ大佐の言葉によって、彼らの楽しかった家族生活の様子を知らせることができます。
「それらは私には幸福な日々でした。愛する父は私の幼年時代、少年時代をより幸福で美しい
思い出でさいわいにしました。彼は父であり大きな兄であり、そして親友でした。
この国の子供たちとの交流や娯楽から閉ざされて、私たちの父は想像される以上の存在でした。
彼は理想的な遊び相手でした。競技者のように、私たちを走りまわせたり、飛び回らせたりしました。彼は物語の上手な語り手でした、オランダのおとぎ話やドイツの黒い森の盗賊の話
をもちあわせていました。あなたがたが良く覚えているように、彼は美しいバリトンの声を持っていました。
彼は共感的な声(sympathetic voice)でしたので、彼の歌を容易には忘れることができません。
長崎にいた当時、私たちのため歌ってくれた子守唄のことも覚えています。
彼はチェスやチェッカーズも私たちとしでくれました、そしてすべてが楽しく興味深いものとなり、彼との遊びのなかでいつも何かを学びました。彼は科学的なおもちゃに大変興味があって
いつもたくさん私たちに与え続けました。遊び友達としての彼と共に過ごす時間は学校であり、彼の保護の下での学校は自由な教育でした。
これらのことを知って、そのような父を失ったことで、私たちが喪失したもの理解していただけるでしょう。」
盗賊の物語のことに関して、彼の死の数ヶ月前のある日にフルベッキ博士が私に言ったことが浮かんできます、東京の第一国立銀行の建物を通り過ぎようとしていたときでした。
あなた方のうちご存知の方も入ると思いますが、それは東京の古い外国様式の建物で屋根に塔といくつかの先端のとがったものがあって、この市にあって、他の建物とは著しいコントラストをみせていました。彼は「子供たちと私はあれを”盗賊の城”と呼んでそれを見にこの道を通るのが彼らの楽しみの一つです。」と語りました。彼は心優しい人でした。
彼の多忙な生活は、社交上のことについてほとんど時間を残しませんでしたが、彼はいつも好んで友人達と会い、交際を楽しみました。このようにして出会った人たちは彼の賜物の広さに
驚かされました。
彼はほとんどの人とその母国語で会話ができただけでなく、優れた音楽家で、頼まれればいつでも、みんなを楽しませるため演奏したり、歌うようにしていました。
彼はユーモアのセンスを持ち、冗談やしゃれがうまいということはありませんでしたが
面白いことや滑稽なことに、非常に関心を持ち、彼の経験と印象を関連付けて一緒にいる人をたのしませる不思議な雰囲気を持っていました。
彼の霊的生活と体験について、彼は多く語りませんでした、彼の率直でシンプルな祈り日々の生活から、彼を導いておられる御霊が大変リアルにいつも臨在していることが分かりました。
彼の逝去に際して、彼の日本のためのまったき偉大な生涯の思い出において、一遍の影もなく、また力の衰えや精神的弱さもなく「現役の中で」取り去られたことを感謝に思います。
彼の旧友であるJ..H バラ牧師は「彼の死は、その生涯のようにシンプルで美しかった。」と書きました。外国宣教ボードのコッブ博士から頂いた手紙には「思えば思うほど、失ったものが大きいことが分かります。しかし彼をいつまでもとどめおく事はできませんでした、このような逝去は衰弱と苦痛が長引くことよりはよいのです。これはこの世界が知っている「携挙」(translation)であります。」と。
この言葉を読んで、すぐにこの「携挙」ということに関するみ言葉が私の心に浮かびました、そしてそれは愛するフルベッキ博士にもっともふさわしいものと思います。
「彼は神と共に歩んだ。そして去った。神が彼を取られたから。」
(1909年講演)
(2006・2・.16南沢私訳)
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