創造

創造主とセルフイメージの世界

神のいのち、復活の力

2024-07-09 09:55:34 | 福音

み名を掲げて 

【ピリピ書3章】 

新年度教会総会を開催でき、感謝です。教会は永遠の神の体であると共に、法律上、法人として認可され、税において優遇されていることは恵みです。そのためにも義務を果たさなければならないことも事実です。多くのご奉仕を感謝します。またこれからのためお祈りください。

ヨーロッパで最初の教会、ピリピ信徒にあてられたこの手紙には「喜び」という言葉が16回も使われていわれます、ローマの獄中で書かれたことを思えば驚きです。

御霊の実は「愛喜び平安・・」とありますように、時々の環境に左右される人間の喜怒哀楽というよりも、神の子としての霊的感性というべきかもしれません。

パウロはかつてユダヤ教パリサイ主義者として福音の敵対者でした。

それは、ただ十字架の恵みによって人は罪を赦され、聖霊を宿す神の子にされるのに、自分の人間的

力に依存して救われるという考えでした。

しかし、ニコデモもそうであったように、自分の修行や悟りによっては真の平安も喜びも得られないことを感じていました。自然的人間のいのちは神のレベルには遠く及ばなかったのです。人間は神から生まれ、神のいのちを生きることによってのみ、永遠の交わりと力を体験できます。どんなに輝いて見えても、被造物のいのちはやがて朽ち果てるのです。

御子において神は真の人間の在り方を示してくださいました。聖霊なる神を宿されて、このお方にお頼りして永遠のいのちに生き、やがて復活されて天の御座につかれる歩みです。

「依存(信頼)、喜び、誇り、」はヘブル語では同義語です。「神から、新たに、上から」がそうであるように。かつてのパウロは自分の能力、家柄、社会的名誉、なかでも宗教的優位こそが頼りであり、誇りとし喜びとしていました。それは被造物である自分とこの世に依存する道で、それらをいかに高めたとしても、神のレベルには及ばなかったのです。

キリスト・イエスを御霊によって知った時に、それらをはるかに超えたいのちの恵みに目覚めました。

そして御子が人となられ、十字架で贖いの血を流されたのは、内住されている御霊を私たちにも注いでくださるためだったことを悟ったのです。

御子の内にあって神のいのちの実を結ばれ、不可能を可能にされ、ついには復活と栄光へと主を引き上げられたその御霊が信仰を通して今、神の子とされた自分にも働かれるのを体験したのです。

 

返ってきた放蕩息子に父親が喜びのあまり最上のもの惜しげもなく与えられたように、神は私たちに「無尽蔵の富」である聖霊を住まわせてくださいます。

 十字架には罪の赦しと共に手本としての二重の恵みがあります。私たちのすべての罪を日々きよめてくださり、神の子として成長させてくださるとともに、主と共にこの世依存に死に、聖霊様への依存と永遠のお交わりによって神の復活のいのちと力を現わされます。

モーセは年老いて人間力に枯渇した時、神にのみ頼り始め、人々を奴隷の身分から解放しました。ギデオンは12万人余の敵に囲まれた時、1万人でも多すぎると言われて、ついにはたった300人まで減らされた。万軍の主により頼む少数者とともに恐るべき神の勝利を体験しました。

主を仰ぎ見て主をたたえ、喜び、誇りましょう。

千歳の岩よ

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