創造

創造主とセルフイメージの世界

主の二面性・神として、人として

2012-10-06 13:37:11 | ゴスペル

神としての主の働きは我々のもとに来られわれわれの罪を負われた代罰者、贖罪者です。

同時に真の人としての主は御霊の御力によって苦難の十字架を忍ばれて復活された勝利者です。

この降下(受肉)と栄化(復活)がわれわれに罪の許しと神の子としての新生をもたらします。

苦悩は試練でありますが、自己依存という肉性(罪性)から神依存(霊性)へと成長させる助けとなります。

従って、甘受すべき艱難と退けるべき艱難を識別する力を祈り求める必要があります。

負うべき十字架なのか、不必要な苦難なのか?

私は戦争責任としての、元捕虜との和解に協力していますがどこまでが負うべき十字架なのかしばしば戸惑います。

一つのヒントは「もし兄弟に恨まれていることを思い出したなら、供え物をそこに、祭壇の前においたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と和解しなさい。それから来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼と一緒に途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと告訴する者は・・・・・・」(マタイ5の23-)

霊的な次元から解釈すると、恨みや赦せない心には告訴する憎しみが作用して、そこにサタンが連動して神に訴えられた場合に、サタンに支配権を奪われることになりかねないという意味ではないでしょうか。

せっかくの友好関係も破壊されるということです。

「もしあなた方が人を赦すなら、私もその人を赦します。私がなにかを赦したいなら、私の赦したことはキリストのみ前で赦したのです。これは私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(第二コリント2の10)

ここでも告訴する側の心にサタンが乗じて、聖霊のお働きを妨げようとするとあります。

相互に傷つけあいながら生きざるを得ない私達をいやされるのは十字架上で最も深い傷を負われた主とその血潮であり、内に住まわれる御霊であります。

 

 

 

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