友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

京大の自治会も教授会もダンマリなのか?

2018年05月13日 17時25分50秒 | Weblog

  中学の同級生から電話が入り、「8月26日にクラス会やるから空けておいて」と言う。「高校の同窓会が、毎年その頃だが大丈夫か?」と聞くので、「オレは出たことなくて」と答える。日頃は「私」と表現しているのに、親しくなった友だちなどは「ボク」と言ったりするが、「オレ」と言ってしまったのは中学時代に戻ったためだろう。

 今日は「母の日」。中学生になったばかりの頃、国語の先生が「君たちは中学生だ。まだ、カアチャンとかオッカチャンと呼んでいるなら、お母さんと呼ぶようにしなさい」と言われた。私は確か、カアチャンと呼んでいたので、そうかこれからはお母さんと呼ぶことにしようと決めた。電車賃も小学生までは子どもだが、中学生からは大人扱いになる訳だから、大人らしく振舞う決意だった。

 けれど、中学生は子ども扱いだった。転校していく女の子からリコーダーを貰っただけなのに、職員室に呼び出され、長時間に亘って立たされた。先生の中には私をチラッと見て、「こういうおとなしい子が一番問題なんだ。大きくなると何するか分からんから」と小声で話す人もいた。「女の子とイチャイチャしてると、成績が落ちるぞ」と言う先生もいたが、私には悪いことをした意識がなかった。

 高校生の時、夏の制服で学校ともめた。先生たちは、「校則は君たちが守る規則だ」と言う。「誰が決めたのですか?自分たちで決めていないのに、なぜ守らなくてはならないのですか?」と反論すると、「君たちのためにあるからだ」と言われる。生徒を管理しておいて、「自主性」を口にするのはおかしいと反発したが、結局は学校の支配下にあった。

 今朝、京大の吉田キャンパスの立て看板が撤去された。京都市の景観条例に反するとして大学が強制撤去したのだ。京大の立て看板は京都の文化だったのに、「法律は守るもの」という訳である。京大の自治会も教授会もダンマリなのだろうか。そういう時代になってきた証なのか。上野千鶴子さんはどう言うのだろう。


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