連鎖的に、また中学生時代の古い記憶がよみがえってきた。中学生くらいになると、「不良」と呼ばれる一群の生徒たちが現れる。何が不良だったのか、今となればよくわからないのだが、校則を守らない、ということが顕著だったのだろうか。
一人の「不良」っぽい女子がいて、同じクラスだったが、やはり接点はなかった。ただ、私は極めて素朴な少女で、同級生は同級生、誰であろうが分け隔てをする理由は持たないので、その少女にも会えばにっこりと挨拶をしていたのだろうと思う。しかし、今思えば、他の少女たちは、一群の「不良」らしいグループからは距離を置いて挨拶すらしなかったのかもしれない。ある時、何をしていたときだったか、屋外でクラスが整列しなければならないがまだ整然と並ぶに至っていない空きの時間帯に、誰彼となくまわりの生徒たちとみんながそれぞれ喋っていたとき、その「不良」と目される少女が、「私、この人、ものすごく好きやねん」とニコニコして私を指し、言い出したことがあった。「だ~い好き」と。たぶん、私の色白ぶり(体が弱くて運動をしないので日に焼けない)か、天然ぶりか、ウエストが細い(確かに細かったのだろう)か、そんな他愛のない話題に一瞬なった時に、彼女が言い出したのだったと思う。その彼女のどこが「不良」だったのか、今ではさっぱりわからないが、何か当時、札付きだったような記憶がある。私は「え?」とびっくりして、どう反応したかは覚えていない。とにかく、そんなに好かれているとは思いもかけなかったので、ただ驚いたのだ。たぶん、そこから先は、もっと世間慣れした他の少女が「おぼこいから?」とか、笑って応酬していたのだろうと思うが、強制的に整列させられてからも、その少女が、「私らみたいな者(もん)にも、いつもちゃんと挨拶してくれるしなぁ、、、」と言っているのが聞こえてきたから、たぶん、それが一番、彼女の好意を呼び起こしていたのだろう。私の記憶では、朝、登校して出会うと、彼女も私も、お互いに「おはよう!」とニコニコして言い合っていたので、それは当たり前に展開する光景だったのだが、今思えば、子どもたちの世界でも、グループが違えば挨拶をしない、などの差別化が行われていたのかもしれない。そして、今思えば、彼女が「私らみたいな者(もん)」というグループに彼女は属していた、ということだ。中学生にして、その自覚は、いったい何を意味していたのだろう。今になれば、そちらの方が気になるが。
幸い、私には、その差別化は内面化されることはなかった。今に至るまで、それは育まれていない。だからなのか、時折、思いがけない人に好かれていることがある。若い頃、住んでいた地域では、昔からその土地に住んでいる赤ら顔で昼間からお酒を飲むガテン系のおじさんがいた。ある種、名物おじさんだ。その人の団地と近所の団地だったこともあり、顔見知りになったので、名前は知らなかったが、道で会うと挨拶をしていた。その人もニコニコして挨拶を返してくれる。私の住んでいた建物は、教育関係者が住んでいる公務員宿舎で、そのおじさんが住んでいる建物とは生活環境が違うらしかった。ある日、地域のお祭りで、役員だった私も参加し、そのおじさんはお祭り男だったので当然参加していたのだが、集会室にやってきたそのおじさんが、私がいるのを見て、鉢巻がほどけてきたので締め直してくれないか、と頭を差し出した。私は、鉢巻を締め直してあげて、「はい、これでいいですか?」と言ったら、「うれしいなぁ。あんたに締めてもらえたなんて、幸せや。もう、ほどきたないわ」と言った。そこへもう一人のお祭り男が入って来た。おじさんはその人に「わしなぁ、この女の人、ものすご好きやねん。ほんまにな、ものすごええねん」と、強く訴える。すると、相手の男性は、「そやなぁ、別嬪さんやしなぁ」と答えると、そのおじさんは強い口調で、「違う! そういうのと違うんや。心や! この人はなぁ、気立てがええんや。ものすごええんや」と、繰り返していた。若かった私は、「別嬪さん」と言われる方が好ましく思えたのだが、そのおじさんはそうではない私の良さをやたら強調した。
後から気付いた。教育関係者の団地の中で、そのおじさんにニコニコして挨拶をする私は、かなりの変わり者であって、多くの奥さんたちは、眉をひそめこそすれ、ニコニコするわけはなかったのだ。
この、何か初めから合意されているかのような差別化は、いったいどこから来るのだろう。私には人々のそちらの方が理解ができない。
そして、これだけは、私は親から譲り受けたのだなと思う。かたくなでわがままだが、世間で自分を鍛えていない分、私の母は世間ずれした人の価値観にも依拠しない。分け隔てするだけの世間知を身につけていないのだ。だから、誰にも公平だ。
だから、かえって世間に当たり前にある差別意識が相対化できる。私が病気になって退職した職場の中間管理職の俗悪さ加減に気づく。あれは相当なものだった、やっぱり。
一人の「不良」っぽい女子がいて、同じクラスだったが、やはり接点はなかった。ただ、私は極めて素朴な少女で、同級生は同級生、誰であろうが分け隔てをする理由は持たないので、その少女にも会えばにっこりと挨拶をしていたのだろうと思う。しかし、今思えば、他の少女たちは、一群の「不良」らしいグループからは距離を置いて挨拶すらしなかったのかもしれない。ある時、何をしていたときだったか、屋外でクラスが整列しなければならないがまだ整然と並ぶに至っていない空きの時間帯に、誰彼となくまわりの生徒たちとみんながそれぞれ喋っていたとき、その「不良」と目される少女が、「私、この人、ものすごく好きやねん」とニコニコして私を指し、言い出したことがあった。「だ~い好き」と。たぶん、私の色白ぶり(体が弱くて運動をしないので日に焼けない)か、天然ぶりか、ウエストが細い(確かに細かったのだろう)か、そんな他愛のない話題に一瞬なった時に、彼女が言い出したのだったと思う。その彼女のどこが「不良」だったのか、今ではさっぱりわからないが、何か当時、札付きだったような記憶がある。私は「え?」とびっくりして、どう反応したかは覚えていない。とにかく、そんなに好かれているとは思いもかけなかったので、ただ驚いたのだ。たぶん、そこから先は、もっと世間慣れした他の少女が「おぼこいから?」とか、笑って応酬していたのだろうと思うが、強制的に整列させられてからも、その少女が、「私らみたいな者(もん)にも、いつもちゃんと挨拶してくれるしなぁ、、、」と言っているのが聞こえてきたから、たぶん、それが一番、彼女の好意を呼び起こしていたのだろう。私の記憶では、朝、登校して出会うと、彼女も私も、お互いに「おはよう!」とニコニコして言い合っていたので、それは当たり前に展開する光景だったのだが、今思えば、子どもたちの世界でも、グループが違えば挨拶をしない、などの差別化が行われていたのかもしれない。そして、今思えば、彼女が「私らみたいな者(もん)」というグループに彼女は属していた、ということだ。中学生にして、その自覚は、いったい何を意味していたのだろう。今になれば、そちらの方が気になるが。
幸い、私には、その差別化は内面化されることはなかった。今に至るまで、それは育まれていない。だからなのか、時折、思いがけない人に好かれていることがある。若い頃、住んでいた地域では、昔からその土地に住んでいる赤ら顔で昼間からお酒を飲むガテン系のおじさんがいた。ある種、名物おじさんだ。その人の団地と近所の団地だったこともあり、顔見知りになったので、名前は知らなかったが、道で会うと挨拶をしていた。その人もニコニコして挨拶を返してくれる。私の住んでいた建物は、教育関係者が住んでいる公務員宿舎で、そのおじさんが住んでいる建物とは生活環境が違うらしかった。ある日、地域のお祭りで、役員だった私も参加し、そのおじさんはお祭り男だったので当然参加していたのだが、集会室にやってきたそのおじさんが、私がいるのを見て、鉢巻がほどけてきたので締め直してくれないか、と頭を差し出した。私は、鉢巻を締め直してあげて、「はい、これでいいですか?」と言ったら、「うれしいなぁ。あんたに締めてもらえたなんて、幸せや。もう、ほどきたないわ」と言った。そこへもう一人のお祭り男が入って来た。おじさんはその人に「わしなぁ、この女の人、ものすご好きやねん。ほんまにな、ものすごええねん」と、強く訴える。すると、相手の男性は、「そやなぁ、別嬪さんやしなぁ」と答えると、そのおじさんは強い口調で、「違う! そういうのと違うんや。心や! この人はなぁ、気立てがええんや。ものすごええんや」と、繰り返していた。若かった私は、「別嬪さん」と言われる方が好ましく思えたのだが、そのおじさんはそうではない私の良さをやたら強調した。
後から気付いた。教育関係者の団地の中で、そのおじさんにニコニコして挨拶をする私は、かなりの変わり者であって、多くの奥さんたちは、眉をひそめこそすれ、ニコニコするわけはなかったのだ。
この、何か初めから合意されているかのような差別化は、いったいどこから来るのだろう。私には人々のそちらの方が理解ができない。
そして、これだけは、私は親から譲り受けたのだなと思う。かたくなでわがままだが、世間で自分を鍛えていない分、私の母は世間ずれした人の価値観にも依拠しない。分け隔てするだけの世間知を身につけていないのだ。だから、誰にも公平だ。
だから、かえって世間に当たり前にある差別意識が相対化できる。私が病気になって退職した職場の中間管理職の俗悪さ加減に気づく。あれは相当なものだった、やっぱり。