凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

辛抱強くない

2009-11-09 12:45:52 | 自分
 最近、年取ったせいか、持久力が極端にない。もともとないのだが、ますます駄目になった。辛抱が足りない。年寄りが気難しいのは、体力・気力ともに他人に合わせて忍耐することが苦痛になってきているせいだろう。だから、年寄りは、気が短い。私もますます、その傾向が強くなってきた。年寄りが、気が長くて寛容だ、などというのは幻想ではないのか?
 それとも、それは、この私という年寄りの特徴? とにかく、短気だ。ただし、昔の頑固爺さんのように傍若無人に短気、というわけにはいかないので、面倒になったら、逃げることを考える。それとも、先に書いたように、相手に「はっきりせぇ」と、迫ってしまう。

 どんどん、友人を失っていくかも。が、そういうことを顧慮することも面倒になるのだ。

人間関係

2009-11-09 09:40:55 | 人間関係
 ある団体にかかわっている。そこは、どの人も誠実にミッションを果たそうとしていて、純粋で他人に優しくて、頭の下がるような人たちばかりだ。
 それでも、トラブる。人の性格はそれぞれで、解釈の仕方も様々で、人は通常自分の解釈の流儀が普通だと思っているから、同じことをめぐって、違う反応、行動をとる他人が理解できなかったりする。それでも、忙しくて、すり合わせができなかったりすると、だんだん、互いに相手を理解できなくなり、さまざまに憶測が始まり、亀裂が走るようになる。

 そんなところに巻き込まれてしまった。どうも、私の悪い癖のようだ。どの人のことも尊敬すべき人たちだと思うので、どちらからも、悩みを打ち明けられると聞いてしまう。と、いうか、団体の運営にかかわることなので、それは一端を担う者として責任はあるので、とにかく双方の話を聞いて、解決をはかろうとおもうわけだ。

 が、このたび、私の苦手な問題にぶつかった。どちらも、相手やさらにまた団体の重鎮に対するネガティブな感情を知られないまま、一緒に仕事をするのを回避したい、という欲望を持っている。だから、私は、どの人の秘密も守りながら、解決をはかるのだが、これは土台無理なのだ。

 「私はあなたと一緒に仕事をするのはもう疲れた、だから一緒に仕事をしたくない」ということをダイレクトに表明してくれたら、事は簡単だが、どちらもそれは絶対に隠そうとする。しかし、絶対に一緒に仕事はしたくない、と言うのだ。この人たちの気持ちを尊重した上で、私がこれらの人たちが一緒に仕事をしないですむような方法を会議で提案をしたら、事情を知らない人が疑問を提示する。「あの人に、○○長になってもらえばいいのではないか」と、一人が言うのだが、それは、もう一人が、仕事が重なるので絶対に回避したいと言っていたことなので、「それは、ちょっと難しいでしょう」などと提案を続ける。そうすると、結局、私の強い反対で、その人を○〇長にできない、などと、後日、実務を担当している人たちの全体の会議(私は出席していない)で報告されたりする。「おいおい、ちょっと待てよ」という感じだ。

 結局、どちらも、自分のネガティブな感情を蔭では言うが、はっきり表明しないために、無理が起こっているのだ。考えてみたら、自分たちはいつまでも「良い子」でいたいのでしょ。で、「良い子」のままで、楽に仕事をしたいのでしょ。尤も、一人は辞職することを決めている。辞職するけれども、その団体とはかかわっていきたいという意向を持っているし、誰もが引き留めたいような人だ。その人にしてみたら、正面衝突は避けたい、というのはわからなくもない。

 ここで、私の欠点が出る。この微妙なバランス、デリケートな心情のやりとりに、疲れてしまうのだ。その間にはさまるなんて、金輪際、向いていない役どころにはまってしまった。

 で、つい、言っちゃったのさ。「ほんとうのことをいつまでも言わなければ、解決できない」と。「真意はどこにあるのだ」と、迫ってしまった。デリカシーがなかった。せっかく私を信頼して、いろいろ打ち明けてくれている人の気持ちを萎えさせてしまった。

 私の最も嫌いなのが、責任がどんどん他に転嫁されるやり方。当事者の問題が煮え詰まってくると、別の人の伝え方が悪かったの、さらに別の人が介入してかきまわされたの、と言い出して、(それも間違いではないが)、どんどん、当事者の責任がぼやけてくる。そういう構図は、過去によく見てきた。が、そういうのは、とてもいやなパターンだ。そもそもは、自分たちがはっきり言えなくて、なんとなく事を荒立てずに済ませようとして、良い子でいようとして(そればかりではないだろうが。恐怖心とかあるかもしれないし)、結局、話をややこしくしたのではないのか、と思ってしまう。そんな事態は避けたい。もちろん、今の団体が、そのようなことになっているわけではない。非常に良質の人の集まりなので、そのようなことにはならないと思う。でも、つい、言ってしまいそうになる。 
 もう、いつまでもまわりになんとかしてもらおうとしないで、自分で対決しろよ、と。卑怯じゃないのか、、、と。

 この直截さが、私がこのあいだまで働いていた公的組織でいじめられた原因の一つかも。私の部下にあたる人たちは、私から見れば「卑怯」という以外の何でもなかったが、この人たちは、自分は火の粉をかぶらないで、なんとかいい感じで楽に仕事をしていきたい、という一心だったと思う。そこに、体制や権力と闘う気満々の私が上司としてやってきたのだから、さぞ、鬱陶しかっただろう。なんか、時間が経って振り返ると、自分も含めて、マンガみたいだ。

 しかし、このデリケートな問題を扱えなかったら、私は多人数の人を束ねていく仕事は無理だな、と思う。と言うか、もともと私は、一人の人が大勢の人を束ねる、ということ自体、無理だと思っているし、そのような構造はおかしいと思っている人間なのだけど。誰も誰かを束ねない、誰も誰かに束ねられたりしない、一人ずつがすっくと立てる社会でないと、民主主義など不可能ではないのか。

 なんか、疲れてきた。プチ切れて、「本当のことをちゃんと自分で言えよ」と双方に通告しちゃったので、なんだかなぁ、、、みんな落ち込ませてしまうだろう。で、融通の利かない、デリカシーのない私、ということになるのだろう。


生き方の癖

2009-11-08 21:30:24 | 性格
 生き方の癖、というものがあるように思う。
人は、なくて七癖、などと言うけれど、そもそも思考、行動、生き方そのものの癖があるように思うこの頃。

 人の幸せを喜べない人がいる。人の災難が好きな人。それも癖と言えば癖だろう。たぶん、自分自身の不幸感がぬぐえなくて、他人の幸せには関心がいかないのだろう。逆に、他人の不幸には心が動く。自分よりも不幸せな人を見つけると、うれしくなって、支えようとする。カウンセラーにもこのタイプが結構いる。不幸な人の役に立っている自分に恍惚となる。目の前の苦悩する人が、カウンセラーを元気にするのだ。
 
 あるカウンセラーが、DVから逃げて駆け込んできた女性を、しかるべき機関につないだことがある。公立の女性センターのカウンセラーだ。その女性が、機関の人といっしょにお礼を言って立ち去るのを見送りながら、カウンセラーがこぼれる笑顔を苦労して隠しているのを私は見てしまった。当然、そのような満面の笑みで見送れるような状況ではない。その女性は、まだこれからが大変なのは、相談にかかわる者なら、誰にでもわかることだ。私はしばらくびっくりして、その隠れ笑顔から目が離せなかった。
 後日、そのカウンセラーが、他人の不幸に自分のアイデンティティを見出すタイプの相談員だとわかって、その時の笑顔のわけがわかった。(誤解のないように言い添えておくが、もちろん、カウンセラーが全部このタイプだというわけではない。私自身が信頼を寄せている、尊敬できるカウンセラーもたくさんいる。)

 上に述べたカウンセラーは、あまりにもお粗末なので、この際、除外しておこう。昔の相談員や調停委員にはこのタイプの人は多かったようだが、最近はここまで古典的なタイプの人は減少していると思う。

 私の知人の、他人の不幸を好きな人は、情緒の安定している人を好きではない。情緒の安定した人には、「軽い」とか「浅い」という言葉で低い評価を与えたりして、興味を示さない。
 こういう人には、重病の時には、特に会いたくないと思う。回復を願ってくれそうもないからだ。私が不幸であることを歓迎しているので、何か災難に巻き込まれたのを知ると、誰よりも親身になってくれるのだが、はしゃいでいるのが垣間見える。本当は近づかない方がよいタイプの人なのだが、しかし、こちらの不幸を実に上手にかぎつけて、弱っている時に、「心配して」駆け寄って来てくれるので、なかなかうまく避けられない。特に、このタイプの人は、最初は、こちらが参っているときに手を差し伸べてくれるので、思わず頼ってしまい、信頼を寄せてしまう。が、実は危険な人物だ。

 もちろん、このタイプの人には自覚的な悪意はない。自分はとても大事なことをしていると、信じている。が、たとえば、ある人の災難について語りながら、自分がその人にいかに貢献したかをとうとうと報告する様子などを見ていると、この人の関心は、自分自身にあるのだなとわかってくる。自分の優しさ、自己犠牲的行為に、陶酔している。そのことで、自己評価を高めているのがよくわかる。つまり、このタイプの人にとって、他人の不幸は、自己評価を高め、自分のアイデンティティを支える栄養みたいなものだ。
 私は、この、親切でいつも私のことを気にかけてくれる人が、私が窮地に陥ったとき、うれしそうに真相を聞こうとしていることに気づいた。「喜んでる」と、わかった。その瞬間に、この人の心理のからくりに不信感を抱くようになった。
 
 この奇妙な性格の人を見分ける一つの目安に、最近気づいた。一見、クールに見える人の方が、普通だ。誰かの不幸を知ったとき、「何かできることがあれば、言ってね」で終わるような、あっさりした人は、他人の不幸が好物ではない人だ。他人の不幸を好餌にしている人は、他人の不幸にはとびつく。頼まないでも駆け寄って来てくれる。いつも、不幸な人と一緒にいる。東に病気の人あれば、駆けつけて看病し、西に泣いている人があれば「私がついている」と励ます。
 この人は、情緒の安定している人を、「魅力がない」という評価をして、一顧だにしない。それはそうだろう。その人にとって元気の素である「不幸」をかかえていないのだから。
 

ふと、苦笑い

2009-11-07 22:08:37 | 性格
 世の中には、自罰型の人と他罰型の人がいるような気がする。他罰型の人は、自分にいやなことがあると、何でも他人のせいにするので、はた迷惑この上ない人たちだ。
 そういう人こそ幸せでいてくれて、他人を攻撃するのをやめてくれたらいいな、と、思うことがあって、ふと気づく。自分を攻撃する人の幸わせを願っている自分がいる。苦笑いする瞬間。

 「許し」という行為の効用がよく言われる。許しは、癒しだ、と。が、私はいつまでも、その境地に到達できない。
 ずっと、引きずっている。これほど、しつこくハラスメントの被害にこだわり続けるのは、何なのか? 
 一つは、ハラスメントを指摘したことで、反撃が来ること。これは、引きずる。こちらも「何を開き直ってんだ! 謝れよ!」という気分になる。だが、今思えば、ハラスメントをする人は、そもそも反省しない人なのだから、指摘したり、抗議をすれば、「逆切れ」するのは、むしろ当たり前の反応だったのだろう。自らを省みることの出来る人は、ハラスメント行為が続かない。相手の意見、異見に、何らかの自己省察が行われるだろうから、ハラスメントにつながっていかないのだ。ハラスメントをする人は、自己を省みることがないから、指摘されたことで、余計に腹を立てたり、反撃に出る。結局、さらなる攻撃、ハラスメントを受けることになり、こちらもずっと引きずることになる。いわば、傷の上に新たな傷を受けるのだから、深傷になるし、治りも悪い。いつまでも疼くようなことにもなる。

 もう一つは、受けたダメージの結果が、私の場合、病気をして失業する、ということであった。で、今も失業状態が続いているから、ハラスメントの被害は甚大だ。忘れる、とか、許す、とか、そういう境地になれないのは、この境遇から来ている。もし、新たな職を得ることができ、生活や精神の安定が得られれば、そのとき、このハラスメントのダメージを乗り越えることができるのだろう。
 人が、恨み続けるのは、自らの不遇ゆえだろう。幸運にめぐまれたら、ハラスメントによる被害も、試練として総括されるのかもしれない。 「あの苦労があったから、今の自分がある」とは、よく聞く成功者の言い方だ。

 「終わりよければすべて良し」とは、よく言ったものだ。結果が良ければ、すべては良きこととして総括される。

 苦難を乗り越えるためには、今の幸せが不可欠だ。苦難を乗り越えて幸せを掴むのではなく、幸せになれば、苦難は乗り越えられるのだ。
 と言うことは、過去に受けた苦い出来事を反芻するばかりでなく、新しい、楽しそうなことに心を向けて、幸せ気分を味わう機会を増やす方が、被害を乗り越える早道かもしれない。

 案外、平凡な結論になってしまった。またもや、苦笑。
 


つながる

2009-11-05 22:55:12 | 
コメントをいただいた。そうか、ひっそりと、共感をもって読んでくれている人がいたのだ。なんか、ほろりとなる。

今まで、攻撃にさらされて心くじかれることの方が多かったので、味方として読んでくれている人がいる、ということがなかなか想像できなかった。

コメントをくださった方、公開してよいかどうかわからないので、保留にしています。公開してもよかったら、また、教えてください。

応えてくださって、ありがとうございました。気持ちが救われました。

悲しみの種

2009-11-03 21:06:29 | 自分
「落魄」という言葉が、ふと、浮かぶ。夜、なんとなく眠れない時とか、一人でぼんやりしている時などに、この何年もの間、幾度となく、キーワードのように心を去来した熟語だ。そうね、今の私のキーワードだ。

 このひっそりしたブログに毎日、アクセスがゼロではない。自分ですら忘れているブログに、数人のアクセスがあったりする。ひょっとしたら、私の不幸を願っている人の邪悪な目が、これを監視しているのかもしれない。たまたま行き当たって読んでくれている、行きずりの人なら、どうぞ、コメントを残してほしい。

 疲れ果てて、救われない気分の時に書きしたためる日記だ。これ以上、私を疲れさせないで、平らな心で足跡を残してほしい。もし、あなたが邪悪な人でないなら。

 私の苦しみは、戦争や災害や、そのような大きな事件からきたものではないので、社会問題にならない。だから、正義を気取っている人も、なかなか私の問題には関わろうとしない。私を苦しめた事件には関与したとしても、私が被害を被ったことがわかったら、さっさと非関与を決め込んで立ち去ろうとする。卑怯だね。ほんとに卑怯だ。

 が、人間っていうのは、卑怯な生き物なのかも。全く卑怯でない人は、とっくに死に絶えているだろう。他人の隙を縫って、電車のシートに滑り込むようにして座るのも、どこか卑怯な手を使っている。他人が気づいていない瞬間、他人の隙をねらうのだもの。かすかに良心の疼きを感じながら、群がる人々の間に一瞬できた隙間に滑り込んで、何かを手にしてしまった経験なら、このすばしこくない、のんびりやの私だって、一度や二度くらい、あるのだから。生き延びてきた、ということはそういうことだろう。

 逃げ足が遅かったのさ。きっと、ただのドジだったんだ。そこに、同じように卑怯な人たちが、そのドジな私をうまく捕まえたのだ。私は、どの人もそういう瞬間があるようにドジだっただけで、私を餌食にした人は、どの人もそうであるように卑怯だっただけだ。

 だから、大きな社会問題みたいに、問題化するのは難しいのかなぁ。