12歳の猫が遺された。女の子だ。当時、宮津に住んでいた友人のところから、生まれた子猫を貰い受けて、連れて帰ってきた。
すでに2歳になっていた雄猫に仲間を、と思ったのだが、雄猫の方は、目も見えないほど幼いときに拾われた子なので、この小さな雌猫を見て、(たぶん、初めて猫を見たのだろう)、「うぅ~」とうなっていたのを思い出す。2歳の猫と、生後2ヶ月ほどの猫では、大きさがまるで違う。が、雌猫は、母猫やきょうだい猫と一緒に暮らしていたので、雄猫にはすぐに慣れた。が、雄猫の方が、見たことのない奇妙な生き物に戸惑っている様子だった。
私は、宮津から帰宅するとすぐに、大きい方の猫に餌を入れてやり、ちび猫のために離乳食を作り始めた。そして、離乳食を与えようと、猫を振り返ると、雄猫が、困惑した表情で私を見上げ、その横で、チビ猫が雄猫のために入れた餌を必死で食べていた。その愉快な光景を、昨日のことのように覚えている。
猫と暮らすと、猫の行動の意味を解釈したくなる。まるで違うコードで動いているだろう彼らに、こちらのコードをあてはめようとしてしまう。彼らはたぶん、生命維持のために、とてもシンプルな行動原理で生きているのだろう。おそらく、私の家にいることも、彼らには深い意味はない。そこを安楽を得られる場所として、受け容れただけだろう。私の膝の上は、母猫の腹のように、基本的欲求を満たす場所として、志向されただけだろう。そこに意味を読もうとする私たちの感傷は、彼らとは無関係だ。
昇天した猫にも、私の方の片思いであると思い定めると、逝かれた苦悩は薄くなる。
遺された雌猫は、人間よりも猫の方を慕ってきた子なので、コードの違いに気づきやすい。
それでも、不思議なものだ。猫は、確実にこちらの目を見る。一生懸命、目を見て訴えてくる。なぜ、猫は、人間の目を見るのか。いつどこで、こちらの「目」に訴えることを学ぶのか。幼い頃は、目は見ない。まるでマイペースだ。が、やがて、目を見て、メッセージを伝えてくるようになる。まるで、猫の目と人間の目のアナロジーをわかっているかのようだ。
友人の一人は、「目が動くから、動くものを見るのだ」と解説していたが、、。
すでに2歳になっていた雄猫に仲間を、と思ったのだが、雄猫の方は、目も見えないほど幼いときに拾われた子なので、この小さな雌猫を見て、(たぶん、初めて猫を見たのだろう)、「うぅ~」とうなっていたのを思い出す。2歳の猫と、生後2ヶ月ほどの猫では、大きさがまるで違う。が、雌猫は、母猫やきょうだい猫と一緒に暮らしていたので、雄猫にはすぐに慣れた。が、雄猫の方が、見たことのない奇妙な生き物に戸惑っている様子だった。
私は、宮津から帰宅するとすぐに、大きい方の猫に餌を入れてやり、ちび猫のために離乳食を作り始めた。そして、離乳食を与えようと、猫を振り返ると、雄猫が、困惑した表情で私を見上げ、その横で、チビ猫が雄猫のために入れた餌を必死で食べていた。その愉快な光景を、昨日のことのように覚えている。
猫と暮らすと、猫の行動の意味を解釈したくなる。まるで違うコードで動いているだろう彼らに、こちらのコードをあてはめようとしてしまう。彼らはたぶん、生命維持のために、とてもシンプルな行動原理で生きているのだろう。おそらく、私の家にいることも、彼らには深い意味はない。そこを安楽を得られる場所として、受け容れただけだろう。私の膝の上は、母猫の腹のように、基本的欲求を満たす場所として、志向されただけだろう。そこに意味を読もうとする私たちの感傷は、彼らとは無関係だ。
昇天した猫にも、私の方の片思いであると思い定めると、逝かれた苦悩は薄くなる。
遺された雌猫は、人間よりも猫の方を慕ってきた子なので、コードの違いに気づきやすい。
それでも、不思議なものだ。猫は、確実にこちらの目を見る。一生懸命、目を見て訴えてくる。なぜ、猫は、人間の目を見るのか。いつどこで、こちらの「目」に訴えることを学ぶのか。幼い頃は、目は見ない。まるでマイペースだ。が、やがて、目を見て、メッセージを伝えてくるようになる。まるで、猫の目と人間の目のアナロジーをわかっているかのようだ。
友人の一人は、「目が動くから、動くものを見るのだ」と解説していたが、、。