凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

とても理解が難しいのだけど、、、。

2013-06-30 21:34:43 | 人間関係
 友人が職場の意地悪な人の言動に深く傷ついて悩んでいる。話を聞いていると、あ~、こういう人いる! という見知った感じ。

 思うのだが、他人に向かって怒りや憎しみを出す人、というのはどういうふうにものを考える人なのだろう。友人の職場では、その人は、露骨に友人を無視するのだそうだ。他の人と楽しげに談笑していても、友人にはろくに口もきかないか、友人が話しかけるとけんもほろろらしいのだ。友人の何かが気に入らないとしても、そこまで露骨なことは普通はしないだろう。いくら好きでない相手でも、プライベートにつきあわなければよいだけで、職場ではニュートラルな気持ちで仕事をしなければ仕事自体に支障を来す。

 私も挨拶を無視されたり、意地の悪い言動を積み重ねてきた人と一緒に仕事をした経験がある。仕事を辞めようと決心して、(最終辞めたが)、何度も泣いた。が、そんないやな相手でさえ、何かを尋ねられたら、仕事に必要な情報は極力提供し、丁寧に対応した。そうしなければ、自分の気分が落ち着かない。やれるのにちゃんとやらない、というようなことは私にはできない。相手がどんなにいやな人でも、きちんと対応することしかできなくて、その後はもっといやな思いをさせられたりするが、だからと言ってこちらが意地悪なことをしてしまったら、自分で自分を許せないと思うので、意地悪なことは私にはできなかった。
 そう考えると、やはり、あの人たちの意地悪は無意識なのだな、と、最後には思う。意識しては、そんな意地悪なことは出来ないだろう、というのが私の解釈。そして、友人も同じ考えらしい。「彼女は無意識だと思うの」と言いつつ、泣きそうになっている。

 嘗て職場で管理的立場にいた時、ある中間管理職の意地悪な言動に、その部下に当たる人たちが苦しみ果てた挙げ句に、私に訴えてきたことがあった。その中間管理職の言動は、よくも、そこまで根性が悪いものだと呆れるような言動に充ち満ちていた。そして、解決をはかろうとした私にも、曲がった根性剥き出しで抵抗してきた。
 私には理解不能だった。が、やはり、後に考えたのは、その人の無意識性だった。自分が間違っていると思えない人、なのだ。何人もの人に酷いことをして抗議の声が上がっていても、自分の言動の問題性を意識化できない。何か、他の人とは違うストーリーが出来上がっている。

 下げた頭を叩く人たち、正直な人を騙す人たち、真っ直ぐだと「真っ直ぐ過ぎる」といちゃもんをつけ、結果が明らかになってから評価を下す人たち、平気で嘘をつく人たち、、、、そういう人たちに「良心」はないのかと思った。超自我が存在せず、自分を律することができないのか、と思った。倫理観が欠落しているのかと思った。

 性悪説の人は、他人に厳しい、ということを知った。同様に、自分にも厳しいのかどうかはわからない。私が会った人は、自分には甘かったように思う。そして、他人は「悪い人」だと思っているふしがある。だから、こちらが素直に褒めても、下心があると勘ぐる。偶然の振る舞いも、策を弄した結果と判断する。性悪説だから、他人の言動はいつも良いものとしては受け取らないで、常に「裏」を考える癖があったように思う。こういう人に、こちらの率直な邪気のない言動は通用しないのかもしれない。

 性善説に立ってしまう私は、人というものは言っていることと考えていることが同じだと思いこんでしまう。裏に何かがあるとは、決して考えない。ただ、性悪説の人には、私のような者は扱いにくいのかもしれないと思うこともある。彼らの文法が通じないから。そうだろう、性悪説の人の性悪説の根拠が何かはわからないが、性悪説を共有しないので、彼らは彼らで、私のような、あるいは私の友人のような人間はわけがわからないのだろう。で、性悪説の人の癖で、自分などが理解できないほどの「性悪」としか思えないのかもしれない。思ったことをそのまま言う人間が信じられなければ、その人の言うことをものすごくねじれて解釈するしかない。すると、とんでもない「悪」の人間イメージが出来上がり、その自分が作り上げた「悪」人に対して、怒りをあらわにしているのかもしれない。憎んでいるのかもしれない。

 ほんとうに、そうとしか思えないような、人がいるのだ。「性悪」説をとる人は、その考え方の根拠を教えてほしい。

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