私は、京都の小さな家で生まれ、育った。母方の親戚筋はほとんど商売人。西陣織を家業とする家も多かったようだ。私の母方の祖父も、西陣織の職人であり、若い頃は、職人をたくさんかかえて大きな商売をしていたと聞いている。商売に失敗したとかで、母の若い頃は、祖父は三叉神経痛を病んでかわいそうだったと母の述懐を聞いている。母自身は、家業が盛業であった頃に幼少期を過ごしているらしいが、ほとんどその記憶がなく、かと言って、貧しくて困っていたという述懐もなく、のほほんと大きくなったイメージの人である。苦悩と言えば、いつも人間関係の話で、意地悪な人に思いあまって仕返しをした話や、いやがらせを言われていやな思いをした話ばかり聞いてきた記憶がある。母の苦悩は周囲の人の心ない言葉やずるさに収斂している。「だから、友達は要らない」と、決意を込めて語っていたのは、私が小学生くらいの頃からだ。
小学生くらいの頃、どうして私も、あのように、周囲の子どもの心ない言葉や扱いに苦しんだのだろうと、今思えば不思議なくらい苦悩はそこにあった。周囲の人が不可解で仕方がなかった。中には優しい友達もいて、その人と仲良くしているといやな思いはしないのだが、意地悪な子どもというのはいくらでもいたような気がする。
今振り返れば、たぶん、母も私もきょうだいがいないので、子ども同士のせめぎ合いに慣れていなかったのだろう。おそらく、普通の子どもなら平気なことが、私や母のような子どもには異常なことだったのだろう。何気なく言われる「これはこうするねん、アホやなぁ」というような、口癖のように添えられる大阪的な「アホやな」にさえ傷ついていたのだろうと思う。今そういうもの言いをする人に出会えば、その「アホやな」に笑い出す私がいるだろうけれど、当時はそのようなもの言いにいちいち傷ついて、「○○さんが、アホやなって言わはった」と家に帰って母に嘆くが、母自身がそういう文化に慣れていないので、「友達てみんな意地悪なことを言うものやから、私は友だちつくらへん」と母は言うしかなかったのだろう。
社会的に鍛えられていない母親は、子どもが傷つくことに、同じように傷つくしかない。
もう私が中学生になっていた頃かもしれない。くっきりと一つの光景が記憶に刻まれている。母方の親戚が法事か何かで私の家に集まっており、2人のおばさんが火鉢をはさんで、ぼそぼそと小さな声で話し込んでいる。おばさんの一人が所在なくいた私に、「寒いさかい、こっちきて火鉢にあたりよし」と呼んでくれて間に入れてくれるが、だからと言って私に関心があるわけではないので、自分たちの会話に熱中する。誰それが何をしたの、何を言ったの、基本的にネガティブな情報が交わされる。私は何となくそれを聴きながら、大人の女の人はこういうふうに会話をするのか、と学んでいくのだ。日頃疎遠なので、親戚の人の名前もよく知っていないだろう私の存在にはかまわず、大人達は、ぼそぼそと噂話に終始する。京都なので、私が後年見聞きする大阪の人の「口の悪さ」はない。大阪の人は直截な表現力を持つ「口達者」な人が多いような気がするが、京都の人は少ないボキャブラリーを文脈で表現豊かにしていたような印象がある。京都人のコミュニケーションには、露骨な悪口表現はなく、持って回ったような語り口が多かったように思う。感情表現が語られるのは、「しんどかったえ」とか、「○○さんもえらい思いしゃはったわ」というような言語表現に終始しながら、万感の思いが伝わるようなコミュニケーションが成り立っていた気がする。たぶん、そこには、様々な言語化されない共通基盤があり、その上で意思の疎通が成立していたのだろう。感情が高ぶることもなく、ぼそぼそと小声で、愚痴なのかうわさ話なのか、とどまることを知らずに続く、おばさんたちの薄暗いシーンが記憶に残っている。
私の育った文化は、愚痴がコミュニケーションだったのかもしれない。誰もが興奮するでもなく大きな声も出さず、いつもぐちぐちとうまくいかなさを語り合う風景が普通だった。母もまた、父に対して、愚痴の垂れ流しをしていた。実に細かな心のくさぐさを、商売をしているために常に家にいる父に、細かく細かく伝えていた。おそらく父は、ほとんどを聞き流していたのだろう。「ああ、そうか」「そうやな」と適当に相槌を打ちながら、細部について理解することはなかったのだろうが、逆らうことなく聞いていた。
私の育った文化はそういうものだった。
今思えば恥ずかしいが、成人しても、私の会話はこのように貧しかったはずだ。初めて、フェミニズム系の団体に顔を出し始めた頃、私は女の人との会話の仕方すらよく知らなかった。自分の見知った流儀でしかできなかった。だから、その頃知り合った人たちは、どこかで私をバカにしていたかもしれない。海外に留学していた人であったり、職業を持つ母親に育てられた人たちにとって、ぼそぼそと自分のしんどい話をし続ける私は、いかにもレベルの低い、友だちにはなりたくない人種であった可能性がある。
私は母のようにはなりたくない、と思い続けていた。母や母に連なる親戚筋のおばさんと同じようにはなりたくないと思っていた。しかし、あれはあの文化の中に生き続けるなら、正しい振る舞い方だったのだ。日頃の鬱憤は爆発させずに、愚痴のかたちで垂れ流す。愚痴を言っている限り、不幸をアピールするから、誰の反感を買うこともない。誰にも反感を持たれず、自分の不幸せを程よく伝えることで、平和な人間関係は保たれるし、自分自身の憂さも少しは晴れるというもの。法事などで親戚が寄り集まると、ぼそぼそとネガティブな情報交換をし、常に自分を目立たさせず、大きな流れの中の一筋のように振る舞うことを心得ている。あの社会では、間違ってはいない。母は、その中で粗相のないように振る舞おうとしてきただけだ。だから、それ以外の振る舞い方、コミュニケーションの取り方を知らない。
私が大人になって久しく、異なる文化に身を置いていると気づくまで、母は、そのコミュニケーション法をとろうとした。親戚筋、ご近所のネガティブ情報を私に与えようとする。「○○さんとこの△ちゃん、離婚しやはったんやて」と、私と同年齢の△ちゃんの離婚について何度聞いたかわからない。私の従兄で一番年の近い人が、若い頃に、比較的早く離婚した。しばらくして、再婚した相手が、年上らしく、紹介された父も「えらい年上の奥さんをもろたもんやな」と言っていた。が、その再婚からも既に30年ほど経っている。未だに母は、その再婚相手について噂話をする時、「今度の奥さん」と呼ぶ。30年も経っていて、「今度の奥さん」もないだろうと思うが、時間が止まったように母は、他人のネガティブな情報を手放さない。
もう何年も前に、母が他人の離婚話ばかりするので(それも、私が全く知らない人のことまで)、「私はそういう話に興味がない」と言ったら、「私は興味がある」と返してきた。自分は興味があるからするのだ、聞く私に興味があろうとなかろうと関係がない、という言明だ。いかにも母らしい。
母には母の文化が全宇宙であるから、そこから動くことはない。が、年をとって弱者になった母は、自分のやり方を貫こうとはしない。強い者には逆らわずに言葉を操るすべを心得ている。今では、そのようなコミュニケーションの取り方はしなくなった。信じられないほど耳が遠くなっているので、そのせいかもしれないが。
そして、私の中にも確実に私を育んだ文化の匂いが残っている。そこを断ち切って、ルーツを消去するわけにはいかない。嫌悪しても断ち切れないものがある。
が、それが人のキャラクターを形成し、ハビトゥスと化してきたものだ。もちろん、その後に浴した文化の影響もある。そこから逃れられないなら、やはり、相対化する作業を細々と続けていくしかない、と思う。
小学生くらいの頃、どうして私も、あのように、周囲の子どもの心ない言葉や扱いに苦しんだのだろうと、今思えば不思議なくらい苦悩はそこにあった。周囲の人が不可解で仕方がなかった。中には優しい友達もいて、その人と仲良くしているといやな思いはしないのだが、意地悪な子どもというのはいくらでもいたような気がする。
今振り返れば、たぶん、母も私もきょうだいがいないので、子ども同士のせめぎ合いに慣れていなかったのだろう。おそらく、普通の子どもなら平気なことが、私や母のような子どもには異常なことだったのだろう。何気なく言われる「これはこうするねん、アホやなぁ」というような、口癖のように添えられる大阪的な「アホやな」にさえ傷ついていたのだろうと思う。今そういうもの言いをする人に出会えば、その「アホやな」に笑い出す私がいるだろうけれど、当時はそのようなもの言いにいちいち傷ついて、「○○さんが、アホやなって言わはった」と家に帰って母に嘆くが、母自身がそういう文化に慣れていないので、「友達てみんな意地悪なことを言うものやから、私は友だちつくらへん」と母は言うしかなかったのだろう。
社会的に鍛えられていない母親は、子どもが傷つくことに、同じように傷つくしかない。
もう私が中学生になっていた頃かもしれない。くっきりと一つの光景が記憶に刻まれている。母方の親戚が法事か何かで私の家に集まっており、2人のおばさんが火鉢をはさんで、ぼそぼそと小さな声で話し込んでいる。おばさんの一人が所在なくいた私に、「寒いさかい、こっちきて火鉢にあたりよし」と呼んでくれて間に入れてくれるが、だからと言って私に関心があるわけではないので、自分たちの会話に熱中する。誰それが何をしたの、何を言ったの、基本的にネガティブな情報が交わされる。私は何となくそれを聴きながら、大人の女の人はこういうふうに会話をするのか、と学んでいくのだ。日頃疎遠なので、親戚の人の名前もよく知っていないだろう私の存在にはかまわず、大人達は、ぼそぼそと噂話に終始する。京都なので、私が後年見聞きする大阪の人の「口の悪さ」はない。大阪の人は直截な表現力を持つ「口達者」な人が多いような気がするが、京都の人は少ないボキャブラリーを文脈で表現豊かにしていたような印象がある。京都人のコミュニケーションには、露骨な悪口表現はなく、持って回ったような語り口が多かったように思う。感情表現が語られるのは、「しんどかったえ」とか、「○○さんもえらい思いしゃはったわ」というような言語表現に終始しながら、万感の思いが伝わるようなコミュニケーションが成り立っていた気がする。たぶん、そこには、様々な言語化されない共通基盤があり、その上で意思の疎通が成立していたのだろう。感情が高ぶることもなく、ぼそぼそと小声で、愚痴なのかうわさ話なのか、とどまることを知らずに続く、おばさんたちの薄暗いシーンが記憶に残っている。
私の育った文化は、愚痴がコミュニケーションだったのかもしれない。誰もが興奮するでもなく大きな声も出さず、いつもぐちぐちとうまくいかなさを語り合う風景が普通だった。母もまた、父に対して、愚痴の垂れ流しをしていた。実に細かな心のくさぐさを、商売をしているために常に家にいる父に、細かく細かく伝えていた。おそらく父は、ほとんどを聞き流していたのだろう。「ああ、そうか」「そうやな」と適当に相槌を打ちながら、細部について理解することはなかったのだろうが、逆らうことなく聞いていた。
私の育った文化はそういうものだった。
今思えば恥ずかしいが、成人しても、私の会話はこのように貧しかったはずだ。初めて、フェミニズム系の団体に顔を出し始めた頃、私は女の人との会話の仕方すらよく知らなかった。自分の見知った流儀でしかできなかった。だから、その頃知り合った人たちは、どこかで私をバカにしていたかもしれない。海外に留学していた人であったり、職業を持つ母親に育てられた人たちにとって、ぼそぼそと自分のしんどい話をし続ける私は、いかにもレベルの低い、友だちにはなりたくない人種であった可能性がある。
私は母のようにはなりたくない、と思い続けていた。母や母に連なる親戚筋のおばさんと同じようにはなりたくないと思っていた。しかし、あれはあの文化の中に生き続けるなら、正しい振る舞い方だったのだ。日頃の鬱憤は爆発させずに、愚痴のかたちで垂れ流す。愚痴を言っている限り、不幸をアピールするから、誰の反感を買うこともない。誰にも反感を持たれず、自分の不幸せを程よく伝えることで、平和な人間関係は保たれるし、自分自身の憂さも少しは晴れるというもの。法事などで親戚が寄り集まると、ぼそぼそとネガティブな情報交換をし、常に自分を目立たさせず、大きな流れの中の一筋のように振る舞うことを心得ている。あの社会では、間違ってはいない。母は、その中で粗相のないように振る舞おうとしてきただけだ。だから、それ以外の振る舞い方、コミュニケーションの取り方を知らない。
私が大人になって久しく、異なる文化に身を置いていると気づくまで、母は、そのコミュニケーション法をとろうとした。親戚筋、ご近所のネガティブ情報を私に与えようとする。「○○さんとこの△ちゃん、離婚しやはったんやて」と、私と同年齢の△ちゃんの離婚について何度聞いたかわからない。私の従兄で一番年の近い人が、若い頃に、比較的早く離婚した。しばらくして、再婚した相手が、年上らしく、紹介された父も「えらい年上の奥さんをもろたもんやな」と言っていた。が、その再婚からも既に30年ほど経っている。未だに母は、その再婚相手について噂話をする時、「今度の奥さん」と呼ぶ。30年も経っていて、「今度の奥さん」もないだろうと思うが、時間が止まったように母は、他人のネガティブな情報を手放さない。
もう何年も前に、母が他人の離婚話ばかりするので(それも、私が全く知らない人のことまで)、「私はそういう話に興味がない」と言ったら、「私は興味がある」と返してきた。自分は興味があるからするのだ、聞く私に興味があろうとなかろうと関係がない、という言明だ。いかにも母らしい。
母には母の文化が全宇宙であるから、そこから動くことはない。が、年をとって弱者になった母は、自分のやり方を貫こうとはしない。強い者には逆らわずに言葉を操るすべを心得ている。今では、そのようなコミュニケーションの取り方はしなくなった。信じられないほど耳が遠くなっているので、そのせいかもしれないが。
そして、私の中にも確実に私を育んだ文化の匂いが残っている。そこを断ち切って、ルーツを消去するわけにはいかない。嫌悪しても断ち切れないものがある。
が、それが人のキャラクターを形成し、ハビトゥスと化してきたものだ。もちろん、その後に浴した文化の影響もある。そこから逃れられないなら、やはり、相対化する作業を細々と続けていくしかない、と思う。