凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

母たちの文化

2012-11-27 10:28:46 | 京都
 私は、京都の小さな家で生まれ、育った。母方の親戚筋はほとんど商売人。西陣織を家業とする家も多かったようだ。私の母方の祖父も、西陣織の職人であり、若い頃は、職人をたくさんかかえて大きな商売をしていたと聞いている。商売に失敗したとかで、母の若い頃は、祖父は三叉神経痛を病んでかわいそうだったと母の述懐を聞いている。母自身は、家業が盛業であった頃に幼少期を過ごしているらしいが、ほとんどその記憶がなく、かと言って、貧しくて困っていたという述懐もなく、のほほんと大きくなったイメージの人である。苦悩と言えば、いつも人間関係の話で、意地悪な人に思いあまって仕返しをした話や、いやがらせを言われていやな思いをした話ばかり聞いてきた記憶がある。母の苦悩は周囲の人の心ない言葉やずるさに収斂している。「だから、友達は要らない」と、決意を込めて語っていたのは、私が小学生くらいの頃からだ。

 小学生くらいの頃、どうして私も、あのように、周囲の子どもの心ない言葉や扱いに苦しんだのだろうと、今思えば不思議なくらい苦悩はそこにあった。周囲の人が不可解で仕方がなかった。中には優しい友達もいて、その人と仲良くしているといやな思いはしないのだが、意地悪な子どもというのはいくらでもいたような気がする。
 今振り返れば、たぶん、母も私もきょうだいがいないので、子ども同士のせめぎ合いに慣れていなかったのだろう。おそらく、普通の子どもなら平気なことが、私や母のような子どもには異常なことだったのだろう。何気なく言われる「これはこうするねん、アホやなぁ」というような、口癖のように添えられる大阪的な「アホやな」にさえ傷ついていたのだろうと思う。今そういうもの言いをする人に出会えば、その「アホやな」に笑い出す私がいるだろうけれど、当時はそのようなもの言いにいちいち傷ついて、「○○さんが、アホやなって言わはった」と家に帰って母に嘆くが、母自身がそういう文化に慣れていないので、「友達てみんな意地悪なことを言うものやから、私は友だちつくらへん」と母は言うしかなかったのだろう。
 社会的に鍛えられていない母親は、子どもが傷つくことに、同じように傷つくしかない。

 もう私が中学生になっていた頃かもしれない。くっきりと一つの光景が記憶に刻まれている。母方の親戚が法事か何かで私の家に集まっており、2人のおばさんが火鉢をはさんで、ぼそぼそと小さな声で話し込んでいる。おばさんの一人が所在なくいた私に、「寒いさかい、こっちきて火鉢にあたりよし」と呼んでくれて間に入れてくれるが、だからと言って私に関心があるわけではないので、自分たちの会話に熱中する。誰それが何をしたの、何を言ったの、基本的にネガティブな情報が交わされる。私は何となくそれを聴きながら、大人の女の人はこういうふうに会話をするのか、と学んでいくのだ。日頃疎遠なので、親戚の人の名前もよく知っていないだろう私の存在にはかまわず、大人達は、ぼそぼそと噂話に終始する。京都なので、私が後年見聞きする大阪の人の「口の悪さ」はない。大阪の人は直截な表現力を持つ「口達者」な人が多いような気がするが、京都の人は少ないボキャブラリーを文脈で表現豊かにしていたような印象がある。京都人のコミュニケーションには、露骨な悪口表現はなく、持って回ったような語り口が多かったように思う。感情表現が語られるのは、「しんどかったえ」とか、「○○さんもえらい思いしゃはったわ」というような言語表現に終始しながら、万感の思いが伝わるようなコミュニケーションが成り立っていた気がする。たぶん、そこには、様々な言語化されない共通基盤があり、その上で意思の疎通が成立していたのだろう。感情が高ぶることもなく、ぼそぼそと小声で、愚痴なのかうわさ話なのか、とどまることを知らずに続く、おばさんたちの薄暗いシーンが記憶に残っている。

 私の育った文化は、愚痴がコミュニケーションだったのかもしれない。誰もが興奮するでもなく大きな声も出さず、いつもぐちぐちとうまくいかなさを語り合う風景が普通だった。母もまた、父に対して、愚痴の垂れ流しをしていた。実に細かな心のくさぐさを、商売をしているために常に家にいる父に、細かく細かく伝えていた。おそらく父は、ほとんどを聞き流していたのだろう。「ああ、そうか」「そうやな」と適当に相槌を打ちながら、細部について理解することはなかったのだろうが、逆らうことなく聞いていた。
 私の育った文化はそういうものだった。

 今思えば恥ずかしいが、成人しても、私の会話はこのように貧しかったはずだ。初めて、フェミニズム系の団体に顔を出し始めた頃、私は女の人との会話の仕方すらよく知らなかった。自分の見知った流儀でしかできなかった。だから、その頃知り合った人たちは、どこかで私をバカにしていたかもしれない。海外に留学していた人であったり、職業を持つ母親に育てられた人たちにとって、ぼそぼそと自分のしんどい話をし続ける私は、いかにもレベルの低い、友だちにはなりたくない人種であった可能性がある。

 私は母のようにはなりたくない、と思い続けていた。母や母に連なる親戚筋のおばさんと同じようにはなりたくないと思っていた。しかし、あれはあの文化の中に生き続けるなら、正しい振る舞い方だったのだ。日頃の鬱憤は爆発させずに、愚痴のかたちで垂れ流す。愚痴を言っている限り、不幸をアピールするから、誰の反感を買うこともない。誰にも反感を持たれず、自分の不幸せを程よく伝えることで、平和な人間関係は保たれるし、自分自身の憂さも少しは晴れるというもの。法事などで親戚が寄り集まると、ぼそぼそとネガティブな情報交換をし、常に自分を目立たさせず、大きな流れの中の一筋のように振る舞うことを心得ている。あの社会では、間違ってはいない。母は、その中で粗相のないように振る舞おうとしてきただけだ。だから、それ以外の振る舞い方、コミュニケーションの取り方を知らない。

 私が大人になって久しく、異なる文化に身を置いていると気づくまで、母は、そのコミュニケーション法をとろうとした。親戚筋、ご近所のネガティブ情報を私に与えようとする。「○○さんとこの△ちゃん、離婚しやはったんやて」と、私と同年齢の△ちゃんの離婚について何度聞いたかわからない。私の従兄で一番年の近い人が、若い頃に、比較的早く離婚した。しばらくして、再婚した相手が、年上らしく、紹介された父も「えらい年上の奥さんをもろたもんやな」と言っていた。が、その再婚からも既に30年ほど経っている。未だに母は、その再婚相手について噂話をする時、「今度の奥さん」と呼ぶ。30年も経っていて、「今度の奥さん」もないだろうと思うが、時間が止まったように母は、他人のネガティブな情報を手放さない。
 もう何年も前に、母が他人の離婚話ばかりするので(それも、私が全く知らない人のことまで)、「私はそういう話に興味がない」と言ったら、「私は興味がある」と返してきた。自分は興味があるからするのだ、聞く私に興味があろうとなかろうと関係がない、という言明だ。いかにも母らしい。
 母には母の文化が全宇宙であるから、そこから動くことはない。が、年をとって弱者になった母は、自分のやり方を貫こうとはしない。強い者には逆らわずに言葉を操るすべを心得ている。今では、そのようなコミュニケーションの取り方はしなくなった。信じられないほど耳が遠くなっているので、そのせいかもしれないが。

 そして、私の中にも確実に私を育んだ文化の匂いが残っている。そこを断ち切って、ルーツを消去するわけにはいかない。嫌悪しても断ち切れないものがある。

 が、それが人のキャラクターを形成し、ハビトゥスと化してきたものだ。もちろん、その後に浴した文化の影響もある。そこから逃れられないなら、やはり、相対化する作業を細々と続けていくしかない、と思う。
 


京都人

2011-01-10 01:48:48 | 京都
 私は、やっぱり、京都人なのだそうだ。「大阪のおばちゃん」の乗りにはなれないのだそうだ。親しい友人に言われて、そうかも、、と思う。確かに、何かが違う、とはいつも思う。なんというのだろう、あの、押し付けがましいような感じ、あの世話好きそうな感じ、あの高らかに笑う感じ、あの自分のスタンダードを信じて疑わない感じ、、、、それらに私は距離を置いてしまう。
 私の知っている京都の親せき筋の女性たちは、小さな声でものを言っていた。あまり笑わなかった。法事などの厳かな席で出会うから、特にそうだっただけかもしれないのだが、いつも真面目な顔をして、小さな声でものを言っているおばさん達ばかりを見ていた気がする。誰も、自分の感情をあらわにする人はいなかった。だから、子どもの頃、大人になると、いつもきちんと礼儀正しくしていなければならないと思っていた。大人になることは、楽しいことではないらしい、と思っていた。
 が、結婚した相手が大阪の人だったので、初めて大阪の大人の女性に出会い、その人たちが、実に愉快そうで、若い私たちとあまり変わらない感性でいるようなので、これなら大丈夫と、ホッとした記憶がある。爾来、窮屈な京都より、気さくな大阪の方を好きだと思うようになった。

 が、近年「大阪のおばちゃん」の騒々しさが、ちょっと苦手になってきた。思えば、夫方の親せき筋もそれほど、けたたましくはない。京都よりも気さくだが、最近よく見かける女性たちの騒々しさ、押しの強さ、恬として恥じない感じは、ないように思う。最近の女性たちの、何か一線を越えたような感じは、近年の特徴かもしれないと思う。ある意味、下品になった気がする。それとも、そういうタイプの人が、テレビ等に露出するようになっただけなのだろうか。

 正直なところ、私は苦手なので、あまりそういう人には近づかない。押し付けがましく、「やっぱり、男は男らしないとなぁ、、、」「うちの娘は、全然女らしのうて、どないなるんやと思うわ」などなど、独特の人生哲学を開陳されて同意を求められたりすると、逃げ出してしまう。
 夫が亡くなってしばらくして、近所の主婦の一人に久しぶりに会うと、「大変やったなぁ。そやけど、若いんやから、また、ええ人できるわ」と言われた時は、言葉を失って、茫然とした。さすがに私のその反応に、その人も「冗談やがな」と、すぐに撤回していたが、良き主婦像を体現しているようなその人の人生観は、ある意味、興味深くもあり、さりとて突き詰めるのは空しそうで、つながるきっかけを失ったまま終わっている。

 親しい友人に「あなたは、話をすると、そうでもないが、一見ツンとしているように見えて、嫌う人はいると思う」と、言われたこともある。それは、自分でもなんとなく感じることがある。初対面から好かれていない、と感じることがたまにある。うちとけない感じが、だめなのだろう。最も親しい友人からさえ、「時々よそよそしい」と言われる。精いっぱい、うちとけていてもそう言われる。これ以上ないくらい、心を開いているのに、それでもそう言われると、何をすればいいのかと思う。
 この世の「しきたり」や「常識」を共有していない何かが、醸し出されているのだろうか。それでも、それは私一人がそのようになってきたわけではない。
 
 思えば、母の文化がそうだったのかもしれない。母と私の関係も、友人に言わせると、他人行儀に見えるそうだから、そのような間柄を常態とする文化の中で生長したのだろう。生育環境の影響の大きさを感じることは多々ある。自分の意志の及ばないところで、産み落とされた文化的環境の影響を感じることが多い。生まれてからの影響だけではなく、母が既にその文化を身につけているのだから、それは長く根付いたものだ。尤も、母の場合は、自分自身の友人を持つこともなく、夫と子どもという、家族内の関係だけに生きて、それで事足れりとした人だから、特に葛藤もないのだろう。(そのために、私や私の子どもは、母を寂しくさせないように、気配りを続ける日々だが、、、。)

 私はずっと、人との関係に葛藤して生きてきた。だからこそ、単独で生きることのできない苦悩をかかえ続けているのだが、だからこそ、さまざまな問題意識が立ち上がるわけだ。

 人間は、ネットワークする生き物だ、ということを最近はとても強く感じるが、それはまた、後日、書くことにする。

 それと、「京都人」というカテゴリーも、そろそろ、検証を加えた方がよさそうだ。一定の文化風土を共有する人、というような意味合いで用いてきたが、もう少し厳密にしていきたい感じが生まれている。
 それもまた、いずれ、、、。

京のぶぶ漬け (続き)

2008-10-11 10:33:49 | 京都
過去のを読み直していたら、最初に「京のお茶漬け」のことを書いていた。あの頃は、最初にこの伝説ありき、で話を始めている。が、私がこのブログを始めたのは、京都人のメンタリティということがずっと、こだわりであったからだ。今日までの間に、「京のぶぶ漬け」について、ちょこちょこと考えたりしていて、相対化し始めているようだ、と思う。
 しかしまぁ、言説というものは、その時の真実を抱きながら、精一杯の正当性をもって論じられるが、いとも簡単に、前提からくつがえされることがある、と、他のことなども考え合わせて、つくづく思う。
 ネット上での発信は、そのあたり、かなり生の状態で提示されるということだろう。

京のぶぶ漬け

2008-10-10 23:18:13 | 京都
京都人は、言っていることと思っていることが違う、という京都人の意地の悪さを表現するときに、この「京のぶぶ漬け」が使われる。私は京都出身なのだが、この言い方が大嫌いだ。そして、この言い回しは、ずいぶん、成長してから他所で聞いた。当然のことながら、京都人は言わない。だから、その言い回しを聞いたとき、非常に違和感があった。なぜなら、まず、私の家では、客には「お茶漬け」など食べさせない。寿司をとるなり、もっと良い物を出す。子どものとき、母を見ていて「饗応婦人」という言葉が浮かんだが、それくらい、見栄っ張りで、よその人にごちそうしようとがんばる。昼時分になれば、「お昼を」ということは言い出すだろう。が、それは、「帰れ」という気持ちの裏返しではない。昼時になったが、あなたはどうするのか? という一つの質問の仕方ではあるかもしれない。昼食を出す気がないのに、どうか? とは尋ねない。食べないで帰るのなら帰るだろう、食べるのなら、食べてゆっくりするだろう、と、選択を相手に委ねる尋ね方の一方法だと思う。なぜなら、自分たちも食事はしたいのだが、相手がどうするかを尋ね、相手の出方で、昼の過ごし方を考えたいからだ。少なくとも、私の家ではそうだった。昼時分をはずす、という発想はないから(時計通りの暮らしだった)、昼食をどのようにするか、という決断を迫られるのだ。そのために、相手にお昼を勧め、「あ、もうこんな時間。ほな、失礼します」と言って腰を上げる人が多かった、ということだ。

 ある人に、この「京のぶぶ漬け」があたっていない、ということを言ったら、若いときに、京都に下宿していたという人が、私の家は京都の中心からはずれていたのだと言う。私の母方は、代々、西陣織を家業としてきた家なので、はずれているどころか、ずっと、京都に根を張って生きてきた人たちだ。私が幼い頃に住んでいたのは中京区だったが、それも「ちょっとはずれてる」と、その人は言う。他人の家のルーツを否定してまで、この「京のぶぶ漬け」の伝説を本当だと言い張りたい理由は何なのか? 単に京都人でもいろいろであり、それぞれのキャラクター、さらに京都市中でもローカルな風習が個々にあり、文化の多様性があった、というシンプルな事実だと思うのだが、それを決めつけたがるのは何なのだろう?

でも、私の中には京都人の血が流れている。

2004-08-16 09:46:34 | 京都
 京都の風情は好き。で、若い頃は、京都しか知らなかった。私の祖父は、世界を「京都」と「田舎」の二分類で把握していたような気がする。
 しかし、京都の(ひょっとして、私のまわりの?)人々のメッセージの複雑さ(有名な「京のお茶漬け」のあれです、あれ)に、子どもの頃から疲れ果て、鬱状態の子どもだった(別に、京都のせいではない、と言われれば、確かに、京都にも鬱でない人の方が多かったが、、、)。
 で、いろいろ、心くたびれていたので、(若いうちに京都をとびだしたので、今では、京都を客観的に見られる気がする)最近になって、この謎を解きたくなった。ので、こんなページをつくることにしたのです。
 私のモットーは、シンプルに生きたい、ということ。