凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

個人的な感情の問題なのに、組織のもめごととなっている、、、。

2011-05-05 18:44:48 | ハラスメント
明るくなりたいと思っても、明るくなる材料がない。

 昨日、久しぶりに数人の人と夕食をとり、アルコールも少しいただいたひととき。その集まりのすべては、良い雰囲気で、誰もが楽しそうで、良かったのだが、ただ、最後に一人の人と話したことは、私を落ち込ませた。

 その人は、私が関わっている団体の会員となっている人だが、その団体を辞めた人から団体の「酷い扱い」について聴き、怒りを持っていることがわかった。私は、団体の擁護をしようとしたが、すぐに無理だとわかった。一方的な情報だけを受け取り、それを信じて疑わないのは、辞めた人の持つ「力」だ。悪口力、というか、風評加害力、とでも言おうか、とても攻撃力のある人だと、あらためてその人の持つ力に驚く。
 尤も、昨夜私が話をした人は、私を責めたりはしない。むしろ、私がよく事情を知らないと思って、私に真実を伝えようとしたらしいのだ。

 こういうわけのわからない影響力に対抗するのは、無理だろう。団体内部では、その人の悪口を誰も言わず、みんなが疲弊しきっているのだが、そのことについては、噂だけを信じている人は知らないのだ。

 私も酷い目にあった組織について、匿名で告発文を書いたことがある。今でも、私の怒りはおさまらない。しかし、何が違うかと言うと、私の場合は、文書化された証拠があり、酷い目にあった人たちの訴えが正式にあり、ただの私人間の「悪口」や「風の噂」のレベルではない。しかも、私はそれでも、事実確認が未完に終わったその事件について、「パワハラ」という裁定はしていない。個人的には、パワハラと思っているが、公的立場としては、その用語を用いず、あくまでラベリングを回避した。

 しかし、今回の団体の事件は、被害者と称する人が、事実確認を拒否し、自分の気持ちの共有と、加害行為の認定を望み、且つ、そのことの正式な訴えもせずに、団体の悪い噂を流し続け、新たな人を味方に巻き込み、団体を風評被害に追いやっている。卑怯きわまりないとらえどころのないやり方である。

 しかし、その人はとても魅力的な人で、どこか心弱いところのある人は、みな、その人の魅力に惹きつけられる。弱いところのない人は、彼女の情緒性にむしろ引いてしまうのだが、弱みや悲しみを持っている人は、皆、彼女を頼りに思い、信頼し、「大好き」だと言う。また、そういう弱い人には、彼女は、限りなくやさしい。とろけるように優しいのだ。逆に、弱かった人が、本来の強さ、タフさを取り戻し始め、彼女と対等に自分の意見を言うようになり、彼女と時として対立する意見を言うようになると、彼女は許せなくなるようだ。自分に対して屈服することを望み、それがかなわないと排除の行動に出る。結局、彼女の下に侍るのは、自分の意見を持たない人、彼女に決めてもらいたい人、彼女を判断の基準にしている人、となる。
 そして、本人自身が、そのことに気づいていない。はじめから彼女から距離のある人は、彼女のそのような病理に気づくことはなく、彼女を支援する。彼女の優しさにとろけてしまった人たちは、彼女に従順だ。結局、彼女の傍にいて、彼女と対等となった人たち(極めて少数)だけが、彼女の病理に気づき、彼女から距離を置こうとし、そして、「裏切り者」呼ばわりをされるのだ。

 この悪夢のような風評被害はいつまで続くのか。そして、団体の側も、彼女の悪意に対抗するように、策を練る。こちらにも、至らぬところがあったのだ、という自省がないように見える。私には、もう、「どっちもどっち」に見えてくる。団体の役員を今年度で下りることにした。役員全員が、紛争を解決できなかった責任をとって、役員を下り、心機一転、会として出直す気でやればよいと思っていたが、(どうせ、担い手の実働部隊は変わらないのだし)、しかし、どうやら、役員を再度やりたい人がいるようだ。しかも、加害者呼ばわりされた当の団体トップが、このままやめたのでは加害行為を認めることになる、と、再任を望んでおり、実働部隊もそれに賛成したとか、、、、。唖然としたが、もう、私には言うべき言葉もない。加害行為は認定されない。被害者を名乗る彼女が出してきた文書では、情緒的な表現ばかりで、これといった加害行為は認められない。そして、彼女自身がそれをわかっているから、調査を拒否したのだろう。彼女の辛さ、苦しさは、誰も疑わない。が、加害行為があったか、と言われれば、それは疑わしい。彼女の文書には、彼女の思い込みの強さ、被害者意識の強さ、あまりにも情緒的な受け止め方などが表現されているが、加害者と名指された人の「加害行為」は読み取れない。センスの悪い言動はあったかもしれないが、「パワハラ」とまでは、誰の目にも見えない。そうして、客観的調査(外部弁護士による)を拒否し、明瞭な訴えもせずに、「悪口」を伝播させるかたちで、団体を孤立させ、窮地に陥れようとする。私には卑怯な行為としか見えない。

 しかし、彼女に魅了された弱みのある人たちは、彼女の正しさを信じて疑わないのだ。そして、彼女も、自分の正しさを信じてくれる、善良で、弱いところのある、コントロールしやすい人を実にうまく見分けて、使い分ける。見事な能力だ。
 彼女のように、人を説得する力も、魅力も、人望力も、コントロール力も持たない私は、ただただ、事態に唖然とし、もはや、どちらにつく気にもなれず、疲れ果てている。

 嘗て自分の所属した組織が、自分の前任者によって、訴訟を起こされた時、現職にありながら組織側につかず、運動側にありながら、原告側にもつかず、どっちの問題点も見えていたので、結局、「どっちもどっちだ」と、自分独自の立場を貫いた、その時と同じ状態になってしまった。どっちかにつくとそこで自分の判断はなくなるから、思考停止する。その、思考停止した人々が、原告側と被告側に別れて、争っていた。
 私の前任者が勝訴した。原告側が勝利にわき、被告側の組織が運営する公共施設のホールを使って、勝利集会をする、と言う。どこまでも、強気と言うか、いやがらせが強い、というか、厚顔無恥というか、もう、よくやるよ、という感じ。
 独自の立場を貫く私が、結局、それほど頑強な人間ではない、というところが実に悲しいけれど、、、。