凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

2010-03-26 22:07:00 | 
 友人と話していて、「母と会うと、傷つく」という話をすると、自分もそうだ、という人が結構多い。女性は、母親との関係に悩んできた人が実に多い。
 多くの母親たちにとって、娘とは、自分のコントロール下に置いて当然の存在だった。特に、私の母のような年代の人たちは、娘だけが自分が支配できる相手だったので、娘の人としての尊厳などには、思いも至らない場合が多い。娘は自分の言うことを聞き、自分に奉仕して当然と思っている。しかし、戦後教育を受けて、男も女も対等だと教え込まれた娘たちは、自分を独立した、プライドも夢もさまざまな権利もある社会的存在として、感じている。だから、母の支配欲に屈服しない。が、どこかで、母に支配はされている。され慣れている、といおうか、子ども時代の支配被支配の関係をひきずっている。しかし、もはや母を支えるだけの存在ではない娘たちは、どこまでも、支配権を当然のように感じて、行使しようとする母とのやり取りに疲れてしまうのだ。

 私の母も、私を使う。平気で使う。が、私が距離を置いているので、かろうじて、自制しているのがわかる。距離を置きあって、他人行儀でいて、初めて、平和を保っている。

 これを崩すと、恐ろしいことになると、私などは思っている。それでも、母と子どもたちと一緒にいると、母が私よりも、孫を好んでいるのはよくわかる。

 なにしろ、私が子どもの頃から、「子どもよりも、孫の方がかわいいらしい」と平気で言っていた人だ。まだ子どもであった私が、どのような気持ちを抱くのかなど、考えもしない人だった。若い時に産んだ私という子どもは、彼女にとって、愛情の対象ではなかったのだろうと思う。娘に愛情をかけるということを知らなかったのだろうと思う。彼女を見ていると、愛着というようなものも、後天的に会得するものだとわかる。愛されて、慈しまれて、会得するのだろう。
 
私も母親だが、娘から遠ざからなければ、娘を虐待してしまうのではないかと、恐ろしかった。私が母の酷薄さに目に見えて傷つくようになった年頃に娘が近づいたとき、このままどのようにして、この娘と同居すればよいのだろうと不安になった。娘との関係の作り方がわからなかった。なぜなら、母のあの薄情な、娘の心を解さない、自分が娘に優先しなければ気がすまない、というようなわがままな長女のような、そういう母親像しか私の中にはなかったからだ。母のように娘を傷つけたくはなく、母のように残酷にもなりたくなかった。幼い娘を慈しんだ、その時のままの自分でいたかった。が、成長して自我を発達させていく娘を前に、私は逃げ出した。自分の母のようにはなりたくないが、思春期の娘とどんな関係を持てるのだろうか。私がしたのは、娘から物理的に距離を置くこと。自分の人生を生きたい、娘を虐待する母にはなりたくない、、、目をつぶって私は飛んだ。

 「母」という特別な意味合いを付与された位置に置かれて、私はモデルを見失っていたのだろう。世間で、「虐待」する母のことが取り上げられることがよくあるが、「虐待」する母は、一つの母親像なのだろう。それ以外を知らない母親達は、「虐待」を選ぶか、子捨てを選ぶか、しかない。それ以外に、その関係を生きるすべを知らないのだ。

 親子の心の傷は深い。無責任に名指された「親子」という関係性に、人々は果てしなく、人生を賭けて、傷ついていく。

不明から抜け出たいのだけど、、、

2010-03-26 11:16:18 | 自分
 この年になって、様々なことに目を開く日々。気づかなかったこと、知らなかったこと、思いもよらなかったこと。いったい、今まで、何を見て、何を聞いて、生きてきたのか、と思う。
 他人の欠点には気づきやすいが、自分の誤りや偏りは、自覚しにくい。

 若い頃、それ以外の真実はないと思いこんで持論を力説していた私が話し終わると、黙って耳を傾けていた人が、「・・・と、あなたは思うのね」と、言ったとき、「え?」とはぐらかされたような気分になった。「そうそう、その通りよ」と、私の正しさを盛り上げてくれる応答があると思いこんでいたので、わけがわからなかった。自説以外に受け容れそうもない私の固い態度に、おそらくその人は、反論するでもなく、それは単に一つの考え方だということを伝えたのだろう。今思えば、顔から火が出るような、未熟な日々だ。

 よくぞ、この未熟で、かたくなな私を、許し、受け容れてもらっていたことだろうと、友人達の寛容さを思う。

 これまで、あまり人と摩擦が起こらなかったのは、単に、私が若く、社会的位置も低く、取るに足りないところにいたためだろう。が、年をとると、そういうわけにはいかず、責任のあるポジションにいてしまったりする。また、責任ある言動を期待される。そうすると、当然のことながら、「未熟な若い子が、つまらないことを言っている」ということでは済まされない。また、私の周囲の人たちも、当然、私と同様、責任あるポジションに就いてしまうことが多い。お互いに、立場的にぬきさしならない状況に置かれてしまい、それが、時には、不本意ながら、摩擦、トラブルへと発展するのだろう。
 こういう組織的、社会的配置に慣れている人は、あるいは、そういうポジションを最初から目指している人は、結局、事なかれ主義の、日和見主義の、「うまく泳ぐ」人となる。が、私もたいていの私の友人達も、既存の組織のありようは、むしろ、ヒエラルキーだ、差別の位階構造だ、と、批判しこそすれ、そこに自分を適合させる気ははなからない。しかし、差別の位階構造は、実は、社会的責任というバックボーンに裏打ちされた構造であり、社会的位置が上昇するということは、責任の重さが増す、ということに他ならなかった。もちろん、上昇志向でありながら、責任を引き受ける気のない人たちが多かったからこそ、私たちは批判してきたのだけれども、この位階構造を解体するとなれば、等分に責任を負う、ということを覚悟しなければならない。
 安全な無責任な場所にいて、他を批判だけする行為は、やりたくない、と、肝に銘じて思う。もちろん、こういうふうに思い定めると、何もできない、力のない者は、権力を批判することも出来ないのか、ということになる。それは、立場の弱い人々を黙らせるやり方以外の何物でもないので、もう少し、言い添えよう。批判するときは、自分なりの責任を自覚する。自分の発信した言葉は、自分のものとして、責任を持つ。あとで、言わなかったふりをしたり、他の人のせいにはしない。自説が間違っていたと気づいたときは、間違っていたことを認め、撤回するだけの責任を持とう、と思う。

 この年になって、ほんとうに、不明の自分を恥じる。どうすれば、より、見えるようになるのか、より、わかるようになるのか。