凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

今、私が整理しないといけないこと

2013-07-10 21:13:03 | 考え方
 もう8年ほど前のことだ。私は、前任者が起こした訴訟の証人として証言台に立った。前任者は、自分が解雇されたのは、実質的な人事権を持っている行政が当時猛威をふるっていたバックラッシュ勢力に屈したからだと、その不当性を訴えていた。行政がバックラッシュ派と密約をして、自分は排除された、という主張だった。
 私は着任直前に引き継ぎのために彼女の話を聞き、大いに同情した。さらに、彼女が形式的に行われた採用のための面接を受けていたことを後で知り、行政が私には黙っていたことがわかって騙された感じを持ったので、さらに行政が卑怯なやり方をしたと思った。

 私は彼女の職名を受け継いだが、ただ私は彼女の役職だけではなく、行政の職員が行っていた役職も引き継いで兼職だった。そして、知った。行政職員がおこなっていた職務はまさに激務で、彼女の比ではない。彼女は、ほとんどお飾りの名誉職に等しいポジションだった。だから、私が求められたのは、実質は行政職員が行ってきた役職の後任だった。しかし、外部からは、それは見えない。行政職員が行ってきた職務は縁の下の力持ちの仕事である。彼女の役職は、華やかな目立つものであるが、実際は行政職員のサポートや後始末、他の職員の秘書的業務を必要とする目玉商品である。それは、市民の目にはきらびやかで彼女の能力の賜物に見えるが、実質は陰の地味な作業で成り立っている。彼女は、外部講師みたいなものである。

 それは、両方を引き継いですぐにわかった。行政職員は、さぞかし重責に喘いだだろう。そして、財政も人員も削減される中で、行政職員は、そのお飾りで手のかかる名誉職のポジションを廃止する方策に辿り着いたのだ。それは、本当に火を見るよりも明らかな熟考の末の結論だ。
 そして、そのポジションの彼女は、他の自治体の名誉職的な役職も引き受けていて、いつも「忙しい、忙しい」と飛び回っている人であったらしい。その彼女のポジション廃止の体制変更について、どれだけ、彼女をまじえて話し合いが行われたのかは知らない。彼女が訴えたところによると、寝耳に水の話で、彼女は騙され、突然解雇決定が告げられたということになっている。
 行政側は何度も話をしようとしたが「忙しい」ことを理由に拒否され、なかなかちゃんと話をできなかったが、一応は伝えた、と主張し、彼女の側は、何も話をしないうちに決められ、知らない間に後任探しが始まった、という主張をする。

 当時、現場の職員として勤務していた人が、最近、私に教えてくれたことによると、何度も行政の管理職から電話がかかっていたが、彼女はつながないでくれ、と電話に出ようとしなかった、とのことだった。そういうことは、裁判では全く明らかにされていないことだが、、、。

 とにかく、引き継ぎ時、事情が少しずつ見えてきてどうしてよいかわからなくなってしまった私に、彼女は、「あなたがいい人だということは他の皆さんから聞いています。あなたはここで頑張って下さい。これは、私と行政の問題です」と、実に潔いことを言った。それは、私には至極真っ当な言い方に聞こえた。

 でも、彼女は訴訟を起こした。私は、それでも彼女の立場に同情的だった。行政はずるい、と思っていた。ただ、彼女が言うようにバックラッシュ派に行政が屈したせいだとはどうしても思えなくなっていた。上に書いたように、これは、一つの下部団体を運営していく方策だったとしか思えない。バックラッシュ派に屈したのなら、私を採用したのは話がおかしい。が、それも、行政のずるさと言えば言えなくもない。私を採用したことによって、カモフラージュができる。

 真相はわからない。私には、見えない。見えるのは、当時の行政の下部団体の内部の大変さだ。これは、確かに、私だって、この名誉職(しかし、結構な人件費は使われている)の廃止以外に考えられない内部事情であったのだ。

 が、バックラッシュのために辞めさせられた、というストーリーがまかり通り、彼女の支援者がものすごく興奮していた。行政を敵視する人でいっぱいだった。しかし、それがだんだんエスカレートした時、私の証人尋問ですべてが明らかになる、という幻想がふりまかれるようになった。
 私に支援者団体の代表から「証言してくれ」と手紙も来た。あなたは、正職員なのだから立場は守られているから、証言してくれ、と。まるで私が自分の立場を守りたくて、証言を渋っているかのような直訴状に、怒りが沸点に達しそうだった。私はいつでも、自分の知っていることは何でも言うつもりであった。立場を守ろうという気は、微塵もない。立場などよりも、正義を守りたい、という気持ちが誰よりも強いつもりであった。私の証人尋問が実現しないのは、私の意向とは無関係だ。行政側の弁護士か、裁判長の判断であったのだろう。
 
 しかし、私の証言が決まった。支援者の人たちは、「これですべてが明らかになる」と大騒ぎだった。私はずっと違和感を持っていた。私が知っていることはすべて、原告の彼女に語っている。それ以上のことは何も知らない。が、私がそれを裁判で言えば、彼女の勝訴となるのか、と、よくわからないが、考えていた。私も行政の問題点はたくさん見てきた。彼女は気の毒な面があるし、怒るのも無理はない。行政の問題点を裁判の場で明らかにできることを望んでもいた。だから、どうしても、証言台に立つ前に、辞表を出したくて、理事長と話をして証言台に立つ日の前に、退職願も送った。そして、私は自分の知っているまま、わからないことはわからないと言い、覚えていないことは覚えていないと言い、わかっていることはわかっていることとして意見を言った。その内容は、おそらく、原告側の彼女にも、被告側の行政にも、都合の良い部分と悪い部分と両方あっただろう。が、それが私の真実なのだ。

 しかし、私はネット上で、支援者団体のブログで、誹謗中傷された。自分の立場を守るために、被告側とつるんで、ぼやかした証言をしたことになっていた。忘れていることを忘れている、と言ったこと、わからないことをわからないと言っただけだ。誹謗中傷しないまでも、「もっとはっきり言ってほしかった」と、私の証言を残念がる人もいた。何をはっきり言うのか? 覚えていないことは覚えていないと、はっきり言ったではないか。行政が、私を採用したことで体制変更の目的を果たしたか、という質問には、はっきり「そうはなっていない」と事情を説明したではないか。
 彼女や支援者は、私が、密約の現場を見たとでもいうのか? いったい、何を「はっきり」言わないといけないのか。私は、質問にはすべて明快に答えた。

 彼女や支援者は、結局、自分たちの望む通りの証言を私がしなかったことを批判しているのだった。自分たちの書いた筋書き通りの証言を、私がしなかったことを攻撃していたのだ。誹謗中傷は続き、私はただでさえ、困難な業務の果てに心身を病み、退職願の期限よりも少し早く入院して病気休暇に入った。その頃に、実名を出した誹謗中傷がネット上で展開された。

 その後、一審で彼女は敗訴し、控訴審で勝訴した。控訴審は、非常にうまい展開だった。彼女の人格権を侵害した、ということが訴訟内容だった。これは、否定できない。確かに、行政の粗雑なやり方は、彼女のみならず、多くの下部団体の職員や非正規の職員の人格権を無視し、蹂躙している。どの自治体もそれは同じような実態だ。
 が、私の人格権を蹂躙しきった彼女とその支援団体の罪はどうなるのか。その後、彼女は3回ほど、謝罪を申し出てきた。彼女自身の所業であるにもかかわらず、支援者の暴走について、彼女が謝罪してきた態になっている。私はいずれも無視した。ネット上で誹謗中傷して、嘘を並べ立てて、私の名誉を損なったのだ。ネット上で、あれは嘘だったと認め、撤回し、謝って、損なわれた私の名誉を回復すればいいではないか。なんで、内密に会おう、などと言ってくるのだ。

 今でも、私は辛い気持ちになる。今もこのことを思い出すたびに不幸な思いに襲われる。

 が、整理できていなかった、と思う。彼女が更新を打ち切られた(解雇ではない)出来事の客観的な判定と、自分が傷つけられたこととは、別立てで考えなければならない。

 どうしても、悔しさや酷い目に遭わされた怒りがあって、判断が狂い勝ちだが、彼女が置かれた状況は客観的に考えて、やはり行政の使い捨て体質の犠牲になったとしか言いようがない。仕組みの問題とは言え、やはり「人格権」の蹂躙であることに間違いはない。そこはしっかり考えるべきだろう。

 私が傷ついたことは間違いがないが、それだからと言って、支援団体の暴走気味のおばさんたちが悪いだけの人たちではないことも確かだ。嘗て、良い働きもしてきた人たちではある。
 友人がそういう、私を追い詰めた人たちを評価する発言をすると、どうしても辛い気持ちが先に立ち、心が滅入ってしまい、彼女たちを貶めたくなる私がいるが、分けて考える訓練は要るようだ。難しいが、ネガティブな感情がどうしても湧き上がるが、、、。

 組織も個人の感情で動く。行政のひどさをいくら責め立てても、個々の職員がびくともしないのは、組織が法的主体となるから、職員個人の責任は問われないからだ。このことは、組織のシステムの中で起こる力動や文脈が原因であるので、当然といえば当然なのだが、その力動や文脈を醸し出すのは個々の職員であるので、そこに自覚がないということは、この問題はずっと繰り返されるということでもある。
 
 やはり、個々の感情で動く組織の分析研究は必要だな、と思う。

 
 

 

短期記憶

2013-07-08 22:18:00 | 考え方
 亡夫の姉が短期記憶障害なのかどうかはわからない。

 もちろん、私にも、何かを隣の部屋に取りに行ったのに、何を取りに来たのか忘れてしまった、などということは再々ある。捜し物などしょっちゅうだ。が、姉の場合はそれとは違う。何か頭の中の構造が変化した感じだ。

 私のこういう経験から考えることはできるだろうか。

 以前、私は自治体の専門職として、女性のための「相談」の仕事をしていた。カウンセラーになるつもりはなく、あくまで「窓口相談」と自分で位置づけ、女性達の悩みを聞きながら、その解決法を自治体の持つ資源に結びつけたり、自治体の施策に反映させることを目的に精力的に動いていた。そして、人づてに聞いたが、私の相談はとても評判が良かったそうだ。辞める頃には、常連さんの他に新規も次々に入り、休みなしに動いていた。私を実にうまく活用した上司の力でもあるが、公務員の常識や思い込みを打破する衝撃力があったようだ。私の名前は近隣の自治体にも伝わり、始終、講演依頼が来ていた。

 その当時、私には特殊能力がついていた、としか言いようのないことができた。約一時間ほど相談者の話を傾聴し、一緒に真剣にその人の悩みを考える、しかし、その人が帰り、次の相談者と向き合ったとたん、私は先の人との話をすべて忘れ去るのだ。そのシリアスな重い、時には緊急性が高くて、役所内を突破口を探して走り回ったりするが、新たな相談者と向き合った途端、私の頭の中はその人の話を吸収するために白紙になる。見事に受け入れ態勢ができているのだ。
 自分で自分の力が信じられないくらい、そのわざが身についていた。毎回、リセットをかけるのだ。が、実はハードディスクにはちゃんとデータを残してある、というのと同じ状況で、ある人のデータが必要な時にはそのデータをきちんと呼び出し、再現できる。が、終わると忘れ去る。その繰り返しを続けた。限りなくその人の感情に寄り添いながら、冷静な分析をすることができていた。半分は醒め、半分は共感で埋め尽くされていた。そして、忘れ去り、必要なときは再現できて、最終的にはその地域の女性相談から見えてきた問題性を行政に政策提言のかたちで出すことができた。

 と言うと、自己肯定が過ぎる、というか、そんなに良くできたか、と嫌味を言われそうだが、自分としては最大限に頑張っていて、最大限に力を発揮した時期だと思う。40歳代後半だ。脂がのりきっていたのだろう。

 そして、その記憶の操り方が、我ながらスゴイと思う。ひょっとしたら、カウンセラーなら誰でもすることなのかもしれない。ただ、訓練を受けていない私にもそういうことが出来たのがスゴイと思う。
 そして、その忘れ方が気になるのだ。今は必要だからこの情報を手放さない、が、不要になった情報は手放す。そいうことで記憶のコントロールが可能なら、義姉は、くず餅をもらったという出来事に対して、私にお礼を言わねばならない間、そのことを心にとどめ、くず餅にとりたてて興味のない彼女は、すぐにその記憶をリセットしたのだろうか。

 昼食を食べた費用も、彼女は驕るという母に対して、自分の分は払います、と言い張り、結局、母の代わりに母のお金で支払いをした私に対して自分の分を支払った。それで、昼食代はもうけりがついたのだが、最後まで、何度も、「私、お昼ご飯を出してもらったままだわ」と気にし続けていた。「いや、ちゃんとはらってもらったよ」と答えると納得するのだが、何分か後には、またしても「お昼代、どうしたかな? 払ってもらったよね」と言い出す。何度も何度も間違えて気にしていた。66才の義姉がそういう状況であるのに対して、85才の母は、そういうことを確実に記憶している。ふと思い出そうとする仕草さえしない。思い出すまでもなく、覚えていることなのだ。
 この記憶の違いは何なのだろう?

 母の場合は、あまりにも記憶したり、気にかけたりすることが少ないので、ちゃんと記憶しておくことができる、と思える。姉の場合は、そのあたりがあやしい。中途半端に忙しいからだろうか。記憶が刻みつけられないらしい。
 それとも、私たちは気を遣わないで済む相手なので、覚えておこうという神経の立ち方がなされないのだろうか。それくらいゆるんでいられる私たちであるなら、家族を持たない彼女にとってよいことであるとは思う。

 記憶のメカニズムについて、もうちょっと知りたいような、、、。そんな感じ。


ぼけるということ

2013-07-08 21:50:55 | 人生
 亡夫の姉が、最近少しおかしい。とても善い人なのだけれど、自分のことを盛んに「頭が悪い」と言う。学校時代は成績の良い人だったそうだが、確かに今の義姉を見ていると、賢いとは言えない。どうにもならないほど無意味な子ども時代の話などを力をこめて話すと思えば、つい先ほどの会話を忘れて全く同じことを繰り返す。

 手みやげに渡したホテルで買ったくず餅を手に、何度も包み紙まで観賞するように見ながらコメントを述べ、「わたし、こういうの一人で食べてしまうの」などと喜んでくれていたのだが、数分後に、バッグに入らずに横に置いていたくず餅の箱を眺め、「あれ? これ、何かな?」と。しばらくじっと考え込み、思い出したのかどうか、それを話題にはしなかった。そしてさらに数分後、その場を立ち上がって移動するとき、再度、くず餅の箱を見つけ、「あれ? これ何だったかな?」と考え込んでいる様子。茫然として声も出ない私。最後は、息子の車で送るときに、バッグと一緒に持ったくず餅の箱を眺め、「あれ? これ、何?」と。
 よほど、くず餅に興味がないのか、とも思うが、いや、違うだろう。この忘れ方は尋常ではない。

 数分前に話していたことを、そっくりそのまま数分後に繰り返す。

 彼女には夫も子どももいない。一人暮らしだ。仕事を辞めてもう10年近く。こんなにぼけるのか?
 若い時から社交ダンスを習っているので、人との交流もあるし、趣味も続いている。ちゃんとわかっていることもたくさんある。
 が、短期記憶があやしい。数分前のことを覚えていないのは、どういう思考と記憶の構造なのか? どうしてよいかわからないが胸が痛む。

 自分の場合、願わくは死ぬまではしゃきっとしていたい。このようなボケ方はいやだ。でも、ぼけたら、自分ではわからないのだろうな。自覚ができないのは辛い。
 

内と外

2013-07-06 08:36:23 | 考え方
 育った家庭がそうだったのか、多くがそうなのか、わからない。私が育った文化では、内と外が画然と分かれていて、内にあっては無茶苦茶な論理を振り回して君臨しようとする親が、一歩外に出ると、聖人君子のようであった。

 子ども時代、そういう親の下で育成されているから、私も同じように、家に帰ると弛緩しだらしなくなるのだが、外ではきちんとお利口さんでいられた。私の親は、私を内弁慶だとなじっていたが、実は、「内弁慶」なのは、親自身だったのだ。

 この二面性にいやけがさしたのは、いつの頃だったろうか。内でも外でも、同じようでありたいと切望した。今では、だいぶん改善されて、自分の暮らしはさほど二重性はないと思う。もちろん一人では弛緩するけれども、家族には一定の敬意と礼儀を忘れない。むしろ他人以上に気を遣っているかもしれない。

 弛緩すると、人は子どもっぽくなる。これも、何なのだろう?と思う。だだっ子のように、わからずやの子どものようになる。気まま全開になる。人中で自分を律するように、なぜ、家庭にあってもそれができないのか?

 DVはその象徴的な表れだ。相手に甘える甘え方が、わがままが何でも許されると信じる甘え方に変わる。思い切り弛緩して、なお受容されることを願っている。
 人は、ほんとうは赤ん坊のように、己が欲望のままに生きたいのを、どこかで無理をして、自分を律するのだろうか。だから、親密な間柄の人ができると、その人には、幼い頃にわがままをぶつけても受容し、あやしてくれた「母」のような(実態の母ではない)存在として期待が始まるのか。本来なら、限度がないほどに理解と受容が行われるはずだという期待を、相手に抱いてしまうのだろうか。

 私の親は、子ども時代の私に言いたい放題だったが、それはまだ人生経験が少なくて批判力のない子どもへの侮りもあるだろうし、自分の子どもであるならば自分の言うことは聴くものである、という関係性への絶対的な依存、という面もあったろう。反撃力もなく、他に自分を支援してくれる人を持たなかった私は、親の一方的な価値観に違和感を抱きながら、そして抗議もしながら、口論の末に身体への物理的攻撃力をもって口を封じられた。
 子どもに権威を示そうとする親は醜い、と思っている。だから、父が大嫌いだった。晩年、すっかり好々爺になって、一度は見直したこともあるが、最近は、やはり嫌いだと思う。自分の今の不遇も親のせいだと、どこかで思っているために、恨みが消えない。

 困難を乗り越えるのに、困難を総括することが意味をなすわけではない。困難を乗り越えるのは、今が良い状態であること、その後が好転すること、しかない、ような気がする。やはり、親は嫌いだ、と思う今日この頃。

 

小児うつ

2013-07-04 07:00:15 | 人生
 「小児うつ」などということばが登場したのはそんなに古い話ではないから、私の子どもの頃に、当然、そのような概念があった筈はない。が、症状はあったのだろう。「小児うつ」という言葉を知ったとき、「あ、自分はこれだった」と思った。暗い、元気のない、子どもだった。11歳の時に、初めて死にたいと思った。死にたい、というよりも、「誰か私を殺して!」と泣き叫びながら、ノートに書き殴った。自分を身もだえするほど憎んでいた。それなのに、それは自分自身なのだった。自分で自分の身体を痛めつけたり、死に至らしめるのは、まことに残酷な所業だ。通常は、自衛本能によって、あらゆる困難から我が身を守ろうとするのが自然な姿であるだろうに、その我が身を自分で痛めつける。それほどに、自衛本能を上回るほどに、自己への絶望、憎悪、そのようなものが増大する。

 それを境に、どんどん暗くなっていったように思う。笑わなくなり、無気力になり、絶望していたが、その私を親は嫌った。父は、さもいやなものを見るような表情で、「おまえはいんけつや!」と罵り続けた。母は私に無関心で、気に入らない時だけ、私に焦点を合わせて叱りつけた。

 ほんとうに、なぜ、死ななかったのだろうと思う。私の中に、どこか健全な部分があったのだろう。コミックを読んで楽しみ、落語や漫才を笑う健全さが残っていた。

 親たちも、自分のナルシシズムが満たされる状況であると機嫌が良くて、あたたかい家庭の雰囲気を醸し出すので、そうした気まぐれも私を救っていたのかもしれない。
 何よりも、もの言わぬ赤ん坊の頃、無条件にかわいがられたので、タフになる健全さのベースが培われたのかもしれない。

 ただただ未成熟だった親に育てられて翻弄され、心をたくさん病ませたが、なんとかその親も乗り越えて、今となれば、まあ普通に社会生活を送っている。良し、としよう、か。

 男ゆえ繊細なマナーを仕込まれなかった父は、娘に対して限りなく粗野で野蛮だった。社会的訓練が欠如した母は精神的に鍛えられず、娘に対して自身が子どものままだった。私が子ども時代、言い争いの挙げ句に、「親を理解してあたたかく見守ろうとしない子ども」として、私を責め続ける父母に対して、「わたし、子どもやでぇ~」と、情けない思いで訴えたことを昨日のことのように覚えている。あなたたちは子どもだった時代があるから経験しているはずだが、私はまだ大人になったことも親になったこともない未経験なのだから、経験をたどって理解できるのはそちらの方ではないのか、と、6年生くらいだったか中学生になっていたか忘れたが、まことに情けない思いで抗議したのを覚えている。親の言い分は、「親」と「子」を入れ替えないと成り立たないような、呆れた内容であったのだが、もうさすがに詳細は忘れた。ただ今思い返すと、ほんとうに幼子のようにもののわかっていない人たちが、子どもを育てていたのだと空恐ろしく思う。私が無事だったのは、家庭内ではだだっ子のように君臨していた人たちであるが、世間体は命がけで守る人たちでもあるからだった。それは、あの頃の文化的基盤だったのだろう。

 「世間に顔向けできないようなことはしてはいけない」「人さまに迷惑をかけるようになってはいけない」「世間に恥をさらしてはいけない」と外聞を保つことを何よりも優先する人たちだったから、外向きには賢そうにふるまえた。その分、一歩家に入れば、弛緩すること甚だしく、父は赤ちゃんのように、母はわがままな娘のようになった。その中で育ったのだ。
 鬱症状を呈していたが、鬱病になることはなく、激しく彼らに抵抗しながら、暗い人生を送りながら、なんとか本を読んだり、別世界に心を遊ばせながら、生き延びた。

 まあ、よく生きた方かもしれない。そろそろ総括?かな。

昨日の日記で思ったこと

2013-07-01 10:32:08 | 組織・集団
 昨日の日記を読み返して、手を入れていて、ふと思った。

 友人を悩ませている人は、臨時職員だそうだ。だから、雇用期間が過ぎればそこを去ることになる人だ。その身分の問題は大きいような気がする。
 職場全体の仕事がうまくいくように振る舞うだけのモチベーションが生まれない。その人自身のありよう自体が、全く尊重されていない。ただ、産休だか育休だかの穴埋めなのだ。その人の立場がすでにそういう屈辱的な立場だ。

 私も産休の穴埋めに臨時講師に行ったことがある。本来の教員は、その科目の専門ではないので、自分の専門に引きつけてシラバスを作っていた。私はそのシラバスを見て茫然とし、私を呼んでくれた教員に確認をとって、最初の授業で自分の作成したシラバスを配布した。
 幸い学生たちには好評で、廊下ですれ違っても、「先生、授業、面白いです。楽しみです」などと声をかけてくれたりした。

 私は、元来この科目の専門だし、正規の教員が余技のようなかたちで教えるのとは違って、いい授業をするのになぁと、臨時雇用の身分が恨めしかった。そして、約束通り、半期で私は用済みとなった。(今は、その大学に非常勤講師として何年か勤めているけれども。)

 だから、友人を悩ませているその人の気持ちがわからないではない部分がある。友人によれば、その人はとてもプライドが高いのだそうだ。これまでの実績をひけらかしたりするそうだ。が、たぶん、それは認められない人の必死のパフォーマンスだ。
 「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という箴言を、若い時は、「慢心してはいけない」という戒めとして心に留めていた。が、今は思う。一定の地位に上り詰めた人は、いくら頭を垂れても垂れた分だけ、さらに評価が上がる。が、地位を獲得していない者が頭を垂れたら、覇気がない、能力がない、として間引きされるのがオチだ。だからその人は、必死で自分をアピールしている。せめて、周りの「正当な」評価を得たいのだ。不当な身分に置かれたことに、たぶん理不尽さ、怒りを感じているのだろう。それを、反撃しないタイプの友人をターゲットに出しているのだろう。

 その人の専門は、その職場では活用度の高い分野だ。だから、本来なら、もっと活躍できるはずだと、本人は思っているだろう。それなのに、その職場では活用度の低い分野を専門とする私の友人が正規職員だ。その人が友人をターゲットにしたのは、それもあるだろうと思う。もともと友人が働いていた職場では、友人は本来の専門を生かした仕事をしていたが、現在の職場では、タイプの違う人材が求められている。論文作成機能や高度検索機能など文書処理能力の高いソフトが友人だとすれば、その職場では音楽ソフトが活用される場面が多いらしい。そして、自分はすぐれた音楽ソフトだと思っているその人は、不遇感で、心穏やかではないのだろう。

 心穏やかでない部分だけは、共感できる。ただし、誰かをターゲットにして、攻撃性を発揮する、という部分は、全く理解不能だ。不遇感、挫折感のようなものは、人は時として経験する。その経験が長く長く続くこともあるだろう。それでも、他者を攻撃しないタイプの人は、辛さを自分で何とかしようとする。が、その辛さを他者への攻撃のかたちで出すタイプの人がいるらしいのは確かだ。
 そういう人は、私が今不幸なのは、あの人には関係のないことだからなぁ、、、とは思わないのだろうか。その人が、自分を蹴落として不遇な環境に置いたのなら話は別だ。それなら、怒りや憎しみは、その人に向かうだろう。しかし、友人がその人を正職員にしないで臨時職員にしたのではない。友人はたまたま、配属された職場の正職員であっただけだ。それでも、攻撃のターゲットになるのか・・・。

 わからない。わからないが、確かにそういう人はいて、エライ目に合うことはある。でも、わからない。。。