凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

「女」であるということ

2011-03-03 13:05:42 | 人生
自分で、ふと自分の弱さというか、甘えというか、そういうものに気づいて、苦笑することがある。自分よりも強くて逞しい人に、ふと、守られたい、と思う時だ。

 シンデレラコンプレックス、という、昔、流行ったコレット・ダウリングだったかの本があるが、あれは、自立して、社会的に成功している女性の深層にもひそむ、男性に「守られたい」「頼りたい」という願望を喝破していた。
 亡くなった友人は、男性とのつきあいをとてもうまく活用していた。「利用」とは敢えて言わない。「利用」と言うと策略的に聞こえるかもしれない。が、彼女の場合は、彼女の「女」としての「魅力」もまた、男社会にうって出る力の一つに作用した、というだけのことだと思う。彼女の優しさは、セクシュアリティとも溶け込んだ優しさだったのだろうと思う。男社会で「女」であること、というのは、時には武器になる。「女」である、ということが、その人の一部であるなら、その「武器」もまた、その人の総合的な力の一つに過ぎない。

 まだ若い頃、彼女が言っていた。あなたが捨てるような男を、私は拾っているだけなのよ、と。お互いにまだ若くて、彼女は何かを埋めるかのように男性たちと交流し、私はまた別の思いで、男の人とはできるだけ関わらないようにしていた。
 「男好き」と「男嫌い」の対照的な女のようだったが、実は、この社会で、彼女も私も屈折していたのだ。

 そして、彼女は燃え尽きるように生きて、さっさと旅立っていった。お別れ会に来ていたある年配の男性は、彼女のことを「やんちゃ娘」と言っていた。どういう関係の人なのかはわからないが、確かに、男性のその人からは「やんちゃ娘」に見えていたのだろう。かわいくて、元気で、時に憎たらしいことを平気で言う、お茶目でお転婆で、手のつけられないはねっかえりだったのだろう。しかし、男性たちを決して脅かさない、かわいげのある「やんちゃ娘」だったのだ。(その言い方が彼女の気に入るかどうかは別にして)。そして、彼女を最後まで支えた男性もいる。どこまで、彼女を支えることが出来ていたのかは、私にはわからないが、一番近かった人だ。

 そして今、男性に支えてもらったり、力になってもらったり、頼ったり、ということをしないで生きようとしてきた私は、とても、頼りない気分になることがある。この世の中で、男性の力添えなしに生きようというのは、無謀なのだ。そして、唯一、「やんちゃ娘」の私を知っていた夫は、もういない。彼は、自分の実体を消滅させて、今、私の生活を支えてくれている。彼の掌の上で生きるのを拒んだ私に対して、彼は自分という実体を消して、支える方にだけまわってくれたみたいだ。

 だから、夫には頭が上がらない。人は、その意識下で他者の意識下の欲望にこたえることがあるのだろうか。意識下で、つながることがあるのだろうか。
 夫は、私の意識下の欲望を読み取って、まるで応えてくれたかのようだ。だから、夫の死を、私は乗り越えられない。

 誰か、自分より大きくて、逞しい人に、頼りたくなる瞬間がある。女性達は、だから、男性とつきあうのだろうか、と考える。「男社会」は、まだまだ強固だから、女が一人で渡っていくのは、厳し過ぎる。私にはもう、渡っていく気力も時間もないから、渡らずに立ちつくすだけだ。
 私にはもう、世の中は、渡るものではないようだ。