凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

「間(ま)」が悪いということ

2013-03-29 09:06:08 | 人間関係
 間が悪い、ということがよくある。これは、何なのだろう? それもまた、自分が呼び寄せるものなのだろうけれど、どうも、間の悪い人、というものがあるように思えてならない。

 昨年は、仕事を負担に感じ始めていて、こなすのに青息吐息のところがあった。登録人数270人のやんちゃでやる気のない学生相手に、疲れ果てていた。私のような非常勤は、学校側も使い捨ての安い労働力としか考えていない。それで、休みに入って時間ができると、少々鬱っぽくなってきて、これではいけないと、友人を誘ったり、友人の誘いを受けたり、SNSのオフ会も予約したりしていると、全部、4月の第一週に集中し、今度は忙しくなってしまって、日程の調整が難しくなってきた。3月のあいだに、予定を入れてくれればいいのに、と、今度は恨めしくすらなる。

 そう言えば、こんなこともあった。もう何年も前の話になるが、ある映画を観たいと思った。ヘテロものではないがロマンスをテーマにしたものなので、一人で観るのは寂しいと思って、当時常に連絡を取り合っていた友人達に「一緒に、観に行かない?」と声をかけた。皆、忙しくてなかなか日程を合わせられない人ばかりだけれど、一人くらい空いている人もいるだろうと思ったのだ。が、全員OKだった。中には、さらに友人を誘って来る人もいて、「団体観賞」だと笑ったことがある。
 
 上のエピソードは、別に深刻な話ではない。が、間がうまくいかない例ではある。バランス良く、まんべんなく、適度な予定で埋められていたいが、そうはいかない。

 知人の娘さんが30歳代半ばで亡くなった。その後、知人と話すと、思ったより元気なので安心した。その時、知人が言った。その娘さんは、自死に近いオーバードーズで亡くなったのだが、「あの子はねぇ、間の悪いところがあってね、電話をかけてくるときって、いつもこちらが今は忙しいから困る、というときに限ってだったりするのよ」としみじみ言った。もう1人の子どもさんにはそれはなく、連絡をしてくるタイミングが程よいのに、その娘さんはたいてい間が悪くて、そういうことでも母娘はぎくしゃくしたようだ。

 それを聞いて以来、私はその「間が悪い」ということが強く印象に残っている。それは、何なのだろう? と思うのだ。確かに人生には「間が悪い」ということが多々起こる。大事な話をこれから、という瞬間に電話が鳴って、話す機会を逸する。テレビでスポーツ観戦中、ここ一番という時に宅配便が届く、なんていうことはよくあるだろう。相手は、こちらのタイミングを見計らって働きかけてくるわけではない。おそらく同じくらいの割合で、間の良い時もあった筈だ。だが、間の悪い時、そのために逃した好機の方を私たちはカウントしてしまう傾向があるのだろう。思うように物事が流れていることを当たり前のように享受し、それを阻まれるとネガティブな感情に一瞬浸される。そのネガティブな感情が記憶を刻むのだろう。間が良い、というのはなかなか意識されない、ということなのだろうけれど、、、。

 「間の悪い子」と印象づけられた娘さんは、おそらく、親にとっての難題を持ち込むことが多かったのではないかと思う。悩みが多く、人とうまくいかないことが多く、気分が暗い時が多いと、どうしてもうれしくなるような電話ではないことが多い。対応する時間もかかり、その子からの電話が負担になることが多くなる。それらのネガティブな積み重ねが、「間の悪い子」にしてしまうのではないのだろうか。

 おそらく、「間が悪い」というのは、そういう法則性が生まれているのではなく、その人の外界との連絡の仕方の問題なのだろう。常に、愚痴の電話をしてくる人は、どんなタイミングであっても、たいてい困る電話だ。その電話に出るよりは他のことをしたいのだから、電話を受ける方にすれば、いつも間が悪いことになる。
 いつも難題を持ち込む娘さんは、母親にとって、なんとなく負担だったのだろう。その娘を大事に思っていても、悩んでいる娘に対応することは、楽しいことではない。心ウキウキすることではない。負担であることに代わりはないが、その負担を敢えて引き受けているところがある。だから、間が悪いのだ。もっと楽しそうであればいいのに、と親の方はそれを望む。楽しい報告なら、少々タイミングが良くなくても、それは良き連絡としてカウントされたはずだ。

 間が悪い人、という法則性などないのだろう、たぶん。
 

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