凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

いじめの構造

2013-03-26 14:58:33 | 人間関係
 ドラえもんには、いじめに象徴的な言い方がある。スネ夫がのび太をいじめるときにいつも言うのが、「のび太のくせに生意気だ」という言い方だ。それは、「年下のくせに」とか「運動音痴のくせに」とか、そういう「理由」があるのではなく、いじめが理由の成立しない理不尽な行為であることを象徴的に表している。のび太はのび太であるから、いじめられるのだ。のび太であるから生意気だし、のび太であるからしてはいけないことだったりする。

 いじめられる方は、自分が何か落ち度があるのかと、たいていは悩む。が、悩んでも意味はない。それはその人自身であることが理由だからだ。しかも、それは、その人の何かを理由とするのではなく、そのコミュニティの中の位置関係でたまたまそこにいてしまったために「選ばれた」のであり、ターゲットと定められたときから、その人は、「処刑台」に据えられるからだ。

 通り魔に狙われたみたいなものだ。通り魔は、ターゲットはだれでもよい。とにかく、そこに居合わせた人を狙う。いじめは、この通り魔事件が、スローモーションのように持続している状態だと考えればよい。

 いじめはスローモーションだから、通り魔事件のように一瞬のことではないから、逆に逃げるチャンスを探して逃げ出せる可能性がある。だから、逃げるしかない。

 一旦ターゲットが特定されると、思考回路は、そのターゲットを目指して働く。何が起こっても、そのターゲットのせいになる。いらいらを解消したいときも、ターゲットを攻撃していらいらを解消しようとする。自分にとって理不尽な出来事も、そのターゲットが首尾良く動かなかったせいだというように解釈される。とにかく、ネガティブな思考は、そのターゲットに向かって吐き出されるように回路が癖づけられてしまう。
 だから、いじめ、ハラスメントの加害者は、もはや自分の加害性に気づかない。どう考えても、いくら思考をめぐらしても、ターゲットが「ちゃんと」してくれさえすれば、うまくいくはずだった、という結論になるのだ。

 昔、DVを受けていた妻が、夫のDVに気づいた話を聞いたことがある。夫が何でも妻が悪い、と言うので、ずっと何でも家庭内のことは自分が至らないせいだと思って萎縮していた。夫はそうして、妻を責め続けて、心のバランスを取る癖がついてしまったのだろう。が、ある時、大地震で家がめちゃくちゃになった。夫はその地震についても妻を責めた。その時初めて、妻は、何もかも、自分が悪いと思わせられてきたことに気づいたというのだ。さすがに、地震は自分が起こしたわけではないので気がついた、というのだ。

 ターゲットになってしまった方はもちろん災難だが、ひとたびターゲットを定めた方も、無意識、無自覚になっている可能性がある。

 実は、私もその二人関係に気づいて、逃げだそうとしているところだ。親しい友人だったので、また、仲良くできるときもあるのでつきあいは長い。しかし、最近、私への責めが加速していた。私は自分が悪いのかと思ったり、相手にも問題があると思うときは反撃したりを繰り返していたが、近頃は、私を攻撃する仕方が増していた。彼女にとって、理不尽なことが続き、思うようにならない人生を送っている、という実感が強いためにそうなるのだろうが、私が関わる場面では、全部私が悪いことになっている、というからくりに気づいた。彼女は、私をターゲットにし始めたのだ。もっと扱いにくい知人友人はいくらでもいるのに、私への怒りが特に強い。絶えず、文句を言う。
 つまり、彼女は、誰かその理不尽なことに責任を取る者を求めていて、その相手を責めたくてしようがなくて ―怒りのはけ口が要るのだ― それを無意識に私に定めたのだ。勿論、最も親しく、最もものが言いやすい、ということで私を無意識に選んだのだろうが、そのからくりに気づいて、私がそこにとどまることはない。
 
 本来、自分に起こる理不尽な出来事とも、どこかで折り合いをつけないとしかたがない。グループに気に入らない人が混じっても、我慢するか、自分が抜けるしかない。しかし、怒りを解消する方法として、誰かを責めることで心のバランスを取ってきた人は、やはり責める相手がどうしても要るのだ。あいつが悪い、酷い人だ、と、人のせいにする癖のある人は、通常、仕事の場面だったりすると面と向かって言えないことが多いが、プライベートな場面で私がそこに居合わせ、何らかの関係にあったりすると、私のせいにする、ということになってしまった。私はDVの被害者妻とは違うから、たいてい、理不尽な攻撃には反撃する。そして、熾烈に喧嘩をする、ということになる。が、ほとほと疲れてきた。なぜ、こうも疲れないといけないのか。要するに、彼女のネガティブ思考につきあわされているからで、彼女に良かれと思っておこなったことも、彼女の怒りの原因になったりすることが多々ある、という事実があった。

 「人間関係の困り事」の日記に書いたAさんのことなのだが、電話がかかって来て、私に「裏切られた」と言ったことで、またもやこのからくりがあると気づいた。私の想像はほぼ的中していたが、ただ、彼女の言い分は私の想定とは少しずれていた。私がAさんのいやがっている人のことを重視していないことは彼女はわかっていたが、その時点で、既に私が「逃げた」と認識をしたらしいこと、そして、そのことに何も意見がないなら、私は何も言わないでほしかったのに、彼女の発言を邪魔した、ということになっていた。そうか、、、私が彼女の援護をしようとして発言をしたことは、既に黙っているべき私が彼女の邪魔をしたことになっていたのか、、、。それなら、私は発言すべきではなかったのだ、ととりあえず謝った。が、後で考えて思った。彼女は、私が彼女の提案に対して無言だったら、それはそれで絶対に許さなかったと思う。冷たい、無視した、とまた責めたに違いない。なぜなら、あの場で、彼女の目論見通り、事が運ぶのは至難だったから、どちらにしても、彼女は成功しなかったと思うからだ。しかし、今となっては、私の発言が彼女を邪魔し、結論を先送りにしたことになっている。
 
 彼女は、どうしても、私を責めたいのだ。私を責めて、うさを晴らしたいのだ。しかし、それを彼女は自覚していない。

 しかし、私はそんな立場に甘んじるいわれはない。逃げるしかない、と思い定めた。
 

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