凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

親分肌の人

2013-08-10 10:54:27 | 人間関係
 リーダーシップがあるというか、人を先導するのに長けた人がいる。結構、いろいろな場面にいるものだ。

 が、これが困る場合がある。本人は自覚しないだろうが、こういう人の中には、自分の懐に飛び込んで来た人だけを大事にする、という人が混じっている。組織にこのタイプの人がいると、実は困るのだ。
 先ず、自分は「長」のポジションだから、何でも一応、耳に入れておいてもらうのが当たり前と思っていたりすると、指示系統を無視して動いたりする。こちらはその人よりも指示系統上、上位であるのに、その人は指示では動かない。先に相談されないことに気を悪くするらしいのだ。
 そして、自分の懐に飛び込んできた人だけを守ろうとするから、業務の実施上あっては困る「えこひいき」が起こる。集団の中の力学を読むのに長けている人は、そういうタイプの人の懐に飛び込むから、自分にとって居心地の良い組織環境が作られることになり、問題はない、ということになるのだが、個人の懐に飛び込まない、組織の成員の一人として立ち位置を作っている人(私の目には、こちらが普通なのだが)は、割を食う。ニュートラルに振る舞うことが、何か不具合を生じる、という結果になる。
 誰からもきちんと距離を置き、組織の一構成員としてふるまう、ということが、この民主主義からほど遠い社会では、こんなにも生き難いことなのかと思う。

 自分の懐に飛び込んで来る人を大事にする人は、要するに身びいきするタイプなのだが、懐に飛び込んでしまった人には、それは欠点には見えない。自分に都合良く動いている社会は、良い社会に見えるものだ。

 が、そういうタイプの人との調整に苦労した私には、まことに問題の多い人であった。そういう人は一人できちんと立たないのだが、親分ポジションなので、一人できちんと立っていない、ということ自体そもそも本人がわかっていない。後ろに守るべき人たちをかかえているヒーローの気分なのだ。後ろに抱えている守るべき人たちは、弱者ではなく、守れば自分にしっかり見返りの来る人たちを守っている、ということも自覚しない。弱者は、いくら守っても見返りは期待できない。そういう人は、そのような弱者を守るわけではない。見返りが期待できる、つまり自分のポジションを強固にする可能性のある人を懐に招き入れ、その人達をかわいがりつつ、自分のポジションを上げている人たちだ。
 一旦何かが起こればその連帯は崩れるだろうが、結構、そういう人間関係の作り方がこの社会では強力なやり方のようで、崩れる気配も見せず、彼女たちは「これでよかった」と思って人生を終えられるのだろう。

 が、本人はそれでよいのだろうが、私はそういう生き方の人がはびこるのはいやなのだ。後ろ盾も何もなく、一人できっちり立ってほしい。誰の利益を代表するのでもなく、これは、真っ当に公平な決定かどうかということを筋道を通して考えて参加してほしい。民主主義はそこからしか生まれない。でも、そう考えていた私が駆逐されるのだから、そして「甘い」だの「理想主義」だの「真面目過ぎる」だのと、批判を受けるのだから、なんだかこんな社会にいつまでも生きていたくない、と思ってしまう。

 親分肌の人は信用しない。自分の身内をかわいがるのは昔のやくざと同じではないか。彼らの世界は、民主主義とは対極にあるバランス感覚に裏打ちされている。

加害側は気づかない

2013-08-01 10:19:32 | 組織・集団
 私が整理しないといけないことは、いくつもある。が、なかなかはかどらないのは、思い出すと、常に痛みが伴い、冷静な思考が続けられなくなるからだ。

 最近、新聞報道された16歳の少女が集団暴行で殺された事件を読んでいて、ふと思った。

 表現にはさまざまな手法があるが、極端な表現手法を使えば、私のケースも「集団暴行」だったと言えなくもない。もちろん、直接、手を下されたわけではない。だから、通常、そのようには表現しない。が、された方の気分はそれだ。

 嘗て、某団体の事務局長が、事務局スタッフの夏休みをどうするか、ということを理事に同報メールで尋ねてきたことがある。理事それぞれが、「就業規則にないのか」「夏休みもまだ与えていなかったのか」というような、自分は何でもわかったふうの叱り口調の人もいたし、上から指図するふうの人もいた。いずれもそれぞれ1回ずつのメールによるレスポンスだった。私は、事務局長がなぜそのようなことを自分で判断しないのか、ということに戸惑い、レスしそびれていたが、他の理事の、よくわかっていないのに口々にエラソーに書いてくるメールに呆れ、事務局長がなすべきことだけを事務的に書いて送った。就業規則も私が作ったので、それについては何の問題もないものだった。それで、事務局長は私の書いた通りにシンプルに事を済ませたのだが、その時すでに、事務局長は疲労困憊して判断する力さえなかったのかもしれない。
 そして、その時のことを彼女は、「小突き回された」と、表現した。誰一人、彼女を小突いた、という意識はないだろう。でも、彼女は小突き回された、のだ。

 私の場合もそうなのだろう。誰一人、私に暴行を加えた、などと思っている人はいないだろう。が、私は集団でぼこぼこにされたのだ。私の気分は、まさにそんな気分だ。実際に、病気にもなった。と言うより、すでに病身で弱っていた私を、集団でぼこぼこにしたのだ、彼女たちは。

 「病気だなんて、知らなかった」「知らなかったんだから、仕方がない」という理屈になっているのだろう。
 自分は知らないけれど、人にはそれぞれ事情がある、だから、むやみに人を批判したり、攻撃するのはよくないのではないか、という配慮は要るのだろうが、自分がむしろ「被害者」だと思っている人、「被害者」を支援しているつもりの人は、もはやそれ以上の配慮も思考もしない。

 一人の善意の第三者を傷つけ、ぼこぼこにしてしまった事実を知らない。いわば、「善意の加害者」たち。

 考えれば考えるほどやりきれなくなって、まとまらなくなる。